十一面観音と

難波敦朗氏画の墨絵。
正しくは十一面千手観音菩薩だが、
開店のとき記念に頂戴した絵だ。

仏画が好きで30年、事あるごとに見てきた。

気が付くと、十一面観音が、
あるときやたらと身の回りに多いことに気づいた。
気づきがめばえると、輪をかけて意識しだすようである。

正面のみから眺めるのではなく
横は当然のこと、真後ろも見たくなる真上からも
真下からも除いてみたくなる。
国宝だ重要文化財だというだけでなく
お寺にあるものですらひっくり返すわけにはいかないのだから、
ないものねだりと言わざるを得ない、
だだっこのようなものであると心得てはいる。

さておき、どうして十一面観音に心が惹かれると
心の奥底で感じていてもほのかな恋心であって、
誰に口にするわけでもなかった。

「あなたは十一面観音様がお守り下さっていらっしゃるわね…」

と、霊感の強い尼さんやお坊さん、霊能者と言う方々から
続けざまに言われたことがある。
口裏を合わそうにも、それぞれ僕を通じてしか全く面識がないのだから
どう疑ってかかってもどうしようもない。
語られた言葉は、事実は事実なのだ。

八方に目を配らないとならないか…
千手まで増えちゃったから、
隅々まで手を尽くさないといけないということか…

などと、思い込むことにした。

10年前の話だ。

このあとネットの仕事に手を出すことになり、
文字通り昼夜関係なく動き回ることになった。

最近、日蓮宗の行者さんに
「この絵は、心がはいっているなあ…すごいよ」
と、久しぶりに感動の声をいただいた。
そして「がんばってね」

どうやら…
まだ暫くは、休ませてはくれないようだ。

共に生きる

「この間、脳梗塞やっちゃってね…」
「足が上がらなくてね…」
「腫瘍が見つかっちゃってさあ…」
「最近、老眼で目がみえないのよ…」
店に、訪ねてくださるお客様との会話。
すこぶる多い健康の話題。

黒々としていた御髪は、すっかり初冬の富士のように白くなり、
つやつやのお顔も、深く年輪が刻まれるようになり、
僕を誰かと違えて話こんでみたり、
20年、30年前には、若々しくいたお客さまも、
時の経過は容赦なく等しく、老いというレタッチを加えている。

仏壇という商材相手ゆえに若いときは、
背伸びをしながらの会話が多かった。

足が痛いというのは、どう痛いのか。
目が見えないとどういう心持ちになるのか。
足を引きずってみたり、目に幕を張ってみたり、
実験したり想像しながら、お年寄りの心痛に同調できるよう努力した。

可愛がってくださった大先輩たちは、
順次世を去り、現役を退く年代になった。

まわりの様相も変化した。
会話していてもどんどん等身大の内容に変化していた。
努力するまでもなく、痛みは痛みとして、
つらさはつらさとして、自分も感じるような年齢になっていた。

「諸行無常の響きあり」と詠われているとおり、
天体からミクロの世界まで、変化しない物は、
何一つないのであって、老いさらばえるのは当然の事なのだ。

変化しないものがあるとしたら、
それこそ妖怪変化の口だろうと思うのではあるが、
僕の感覚の中には、実像が存在しなかった。

心のどこかに無常を受け入れていない部分があったのだろう。
これも執着か…。

人の振り見て…で、
上さんとの会話に「あの芸能人ふけたねえ」なんて言おうものなら、
「大して変わらないよ」おまえも鏡見てみろとばかりに、
たしなめられてしまうわけで、
「時」というレールは同じ向きに敷いてあることに気付かされるのだ。

自然の移ろいを当然と受け入れるように、

青春から朱夏となり、過ぎれば白秋、黒冬に移る。
刻まれる年輪もごく自然のこととして受け入れ、
ともに成長するお客様を鏡として、受け入れていくことが楽しみとなる。

これが商売の妙味かなと少し感じるこの頃だ。

麝香…

「何…これ~~」

店の誰もが始めてこの香りに触れるとき
発する第一声だ。

麝香(じゃこう)ムスクともいう。
麝香鹿の香嚢本体である。
ここからとれる精油が、俗に言う媚薬などとも呼ばれる。

ワシントン条約の網にもかっかっているから
入手困難な状況。

お香の材料って、この先どうなるのかなあ・・・

彼岸花

彼岸の月。

墨田川沿いの公園の花壇に咲き乱れていた彼岸花。

先の台風が、ほとんど吹き飛ばしてしまっていた。

毒々しくも感じるほどの彼岸花の赤。

我が家では、
彼岸花を摘んで帰るのはご法度だったことを想い出す。

子供のころ、父の墓参りに横浜から小平の田舎まで
母に連れられて秋の彼岸に毎年出かけていた。

東横線で渋谷に出て、
迷い迷いしながら、国鉄に乗り換え、
当時は西武新宿線の始発駅だった高田馬場駅まで出る。
ここからがまた長かった。

小平が田舎?なんて思われるだろうが、
当時…昭和30年後半の西武新宿線は、新宿を過ぎると、
とたんに郊外の風景に変化した。
まだまだ、武蔵野の面影が子供心にも理解できるほど、
緑は多かった。

田無駅で鈍行に乗り換えるが、これがなかなか来ない。
枕木に生えるぺんぺん草を見つめたり、
視界を遮る何ものもない真っ青な空を、
飛び交うとんびの姿を見つめたり、
暫くホームで姉と遊び疲れた頃、
ようやく目的の電車がトコトコと入線する。

なんとものんびりした牧歌的な風景だった。

子供心にも遠くに来てしまったと、旅情を味わったものだ。

花小金井の駅からさほど遠くないところに墓所はあった。

線路脇に咲く赤い花を摘んでいけばよいのに、
わざわざ、花屋によって生花を買っていくのが不思議でならなかった。
あまりに不思議で一度聞いたことがあった。

母はいぶかしい顔をしながら、
「これは摘んじゃだめなの」

母にたしなめられた。

それが、後々、彼岸花ということを知った。

何故摘んではいけないのか、未だに理解していないのだが…
母には「死者の花」と刷り込まれていたようだった。
(墓参りなのにね)

だから、彼岸花を見るたびに、
その時の光景がふと浮んでくる。

肌で感じる

ネットで販売を創めたのが2000年の7月だから…
丸7年経ったことになる。
実は、1996年にカオリ・ドットコムという店名で、
ドメインも取得し、サーバーも依頼し、
開店準備をしていた。

訳あって、4年遅れで再スタートということに相成った。
遅れた理由は、業務委託先と連携が上手く取れなかったためだった。
全て整っての仕切り直しというのは、エネルギーが要るもので、
なかなか再スタートのスイッチを押せないものだ。

ECの世界もまだまだのどかな時代で、
黎明期にありがちな
共存共栄、共に盛り立てていこうとする気概に溢れていた。
そんな雰囲気に押されるように、
再スタートを切ることができた。

躊躇していた4年間にECの環境は大きく変化していた。
第一世代(自分ではそう呼んでいる)の先駆者に成功事例が続出し
「ネットでは物が売れる」と実しやかにマスコミも取り上げはじめていた。

いけいけムードが醸造され初めてきたということだ。

しかし、まだまだ古きよき時代の牧歌的ムードも残っていて
独特の世界があった。
今のように初めからシステマチックであったり、
スパンが横行するこんな時代だったら、

果たして手を出す気になっただろうか。

他人任せで運営を考えていた反省から、
この7年は全て一人でこなしてきた。

一人でこなすと言うことは、何から何までということで
いっさい業務委託はしないということで、両刃の剣だ。

一人で運営している一番の利点は、お客様の動向が店に立つより
肌身に沁みて感じさせられるということ。

困るのは、
時間がとにかくない。
時間の速度が速すぎる。
独り言が多くなった。

浅草の店には、ネット経由でお出でいただいたお客様が
目に見えて多くなっている。

主従で考えるならば、明らかに過渡期にある。
店舗主導とは、考えにくくなっている。

導入としてのネットは、
もう欠かすことのできないツールとなっているのだ。

観音の原点

母は偉大だと思う。

「子供が大きくなってきたら、何考えているのかわからない」
4人の息子ドモは、思春期ということだろうか、
母親には理解困難になってきた。
あいにく母親の味方が当家にはいないものだから、
相談相手は俄然、僕一人となる。

中学、高校時代の自分はどうだったかなと想い出す。
たしかに一筋縄ではいかなかっただろう。

親と同伴するなんて考えられないことだったし、
まともに受け答えすることもなかったような気がする。

男の子は、お母さんに対しシャイなんだよね。

小学校時代のようにはいかない接し方に、
母親としては戸惑い、また寂しいのだろう。
でも文句を言いながらも、
料理を作ったり、世話を欠かさないんだから…

母親は、すごいと思う。

観音様の姿に母親をダブらせる気持ちが
痛いほどわかる。

英霊にきく

38歳の時から縁があって靖国神社に参拝に出かけている。
縁というのは、僕を可愛がって下さる父親のような、師匠のような
天台宗のお坊さんとの出逢いが、
毎月初めを参拝の日と決めた要因だった。

それ以前から、神社の崇敬会とは縁があったのだが、
足を運ぶところまでは心が動かなかった。

ただ、歴史大好き人間として、近代史は謎が多くて
いつか解きたい問題ではあった。

師が日韓仏教福祉協会という会を主催し、
月初めは欠かさず参拝していることを知り
金魚の糞の如く様でご一緒させていただいたのがきっかけだった。

自分の中には、近代史特に昭和史がすっぽりない。
生きた語り部が回りにいくらでもいた時代に生きながら
まともに系統立てて認識した記憶がない。
苦労話は、若者の心に「またか」の印象しか
残さなかったのかもしれない。

学校で歴史の授業では、ちょうど昭和史は3学期の末になる。
明治維新前までは、ことさら細かく勉強するが
現代史に入ると、何故か急行列車の如く
授業内容は、はしょるわはしょる。

大きな歴史的事実は記憶にあるが、
大枠のみで、なぜにそれに至ったかは、
疑問符を残したまま生徒に委ねられた格好だった。
委ねられてもね…

そんな印象が強い。

生きた人間がそこに感じ取ることができなくて、
近代史はどうも好きになれない要因でもあった。

今でこそ靖国神社が取りざたされることが多いためか
遊就館という資料館があることも一般的になった。
初参加の頃、ぼくには、ここは全くの異空間だった。

九段の母を唄うのがせい一杯の知識だった。
当時は、改装される前で今のようなオープンさはなくて、
古めかしい旧館のみで展示していたが、かび臭くて
歴史が押し込められていると言う形容がぴったりの雰囲気だった。

改めて指折り数えてみる。14年続けてきた。
英霊の気持ちにささやかでしか応えられないもどかしさはあるのが
確実に抜けていた昭和史が、徐々にではあるが埋められていくのが
実感としてわかるようになった。

イデオロギーの眼鏡をはずして事実として直視することが
必要な作業であることを感じて止まない。

青春 朱夏 白秋 玄冬

「いつまでも青春と思いたい」
と話していると、友人から
50歳は「朱夏」というんですよ教えられた。
「青春であり続けるとは、子供のままでいるということと同じ」

青春には青春の、
朱夏には朱夏の生き方があるというものと、
たしなめられた。

人生には青春 朱夏 白秋 玄冬がある。

もともと陰陽五行説からの考え方であるが、
人生に春夏秋冬があり、それがふさわしい生き方、指針となる。
春の時期に生き方を悩み考え基礎を作る。
夏の時期は、その土台を元に行動する時期。
秋には刈り取りの時期、そして冬…

その時期相応した生き方、考え方というのがあるはずなのだ。

「人は突然人生を引き算で考えはじめる」という。
あと何回こういうことができるだろう…
何回ここに来れるだろう…
何年生きれるだろう…
と考えはじめる。

青春の時期は、そんな期限は感じられないのだから。
考えはじめたら、
そのときが変わり目なのだろう…

若かりし頃、「33歳が自分の人生の全てだ」
突然天の声のようにドーンと思い込んでしまったことがある。
22~3歳の頃だったと思う。
「思い込み」と言えば思い込みなのだけれど、
何がそうさせたか、今では思い出せない。
ただ、素直にストンと腑に落ちてしまった。

もしマイナスのエネルギーでそう思い込んだのだとしたら、
厭世観に苛まれたのかもしれない。
けれど、じゃあ残されている10年間、
「何でもやってやろうじゃないの」と、
チャレンジすることにエネルギーを方向付けた。

その方向付けがなかったら、
今の僕はなかっただろう。
とっくに青木ケ原だったかもしれない。

もしかすると、
ぼくは、また一回り終わって、
二周目の青春にいるのかな…。

「忠告を理解していないな」と友人に怒られそうだ。

持ち続けるもの

区内は、ままチャリで用の足りるので、
暑かろうが、寒かろうが、
よほどの天候でない限り銀輪部隊で行動する。

自転車の丁度良い速度と小回り性は、
新しい出会いに遭遇できる魔法の機械なのだ。

つくづくこの町が空襲被害を受けなかったら、
(さらに言えば関東大震災も含めて)
どれほど歴史の香りと下町情緒を残す。

いとおしい町だったのだろうと思うことがある。

それじゃあ、愛着がないとでも言いそうな、
表現に聞こえるけれど決してそうではない。
見える史跡という外観がなくなった分、
語り伝えてくれる人が多いのも事実だ。

だから、僕の頭の中には、
空想で、町のイメージが創られるに及んでいる。
さらに古地図好きの習性は時代時代の町並みを蘇えらせ、
3D画像でインプットされている。

小さな祠を偶然見つけても、いや、昔はこうではなかった。
諸藩の上屋敷にあったはずだから、
その鎮守だの分社だのとつい想像してしまう。

念珠堂のある雷門のこの通りですら、
今では想像できぬほど情緒があったようだ。
今では、商店街を作る話が持ち上がるほど、
人通りを目当ての店が増え、賑わいのある通りとなったけれど、
昔は、お稲荷さんがこの通りにあって、それを目当ての
参拝の足が絶えなかったという古老の話も聞いた。

浅草寺への表玄関は駒形堂からであり、
大店が軒を連ね、町のスケールは、
今より一回りも二回りも大きかったように想像するに難くない。

浅草広小路という名称も、並木町、材木町などの町名も
いつの間にか消えてなくなりはしたが、原風景を
心にさえ絶やさない限り、「風情」はどこかで振子が戻るように
修正されていくのじゃないだろうかと、
ささやかな期待を持ち続けている。

今が一番

早い、早い、早い。
なんて時間の経過が早いんだろう…

明日で、8月も晦日になってしまう。

ついこの間まで、梅雨が明けるだのどうのと
話題になっていたかと思えば、
猛暑日の毎日で苦しんで、いたというのに。
もう秋口。

いつからこんなに時間と競うようになったのだろう。
つい考えてしまうほどに時間が早い。

WEBの仕事を始めてからは、
昼夜がないためか、激流のように問答無用に早い。

でも店を始めた30代の頃から、時間は早いぞ。
資金繰りを考え考えしていたからだろう。
毎月「もう晦日だ」としょっちゅう追われていたもの。

いやいや、
土木屋だった20代の頃は、工事の進捗に
工程管理表とにらめっこしながら
「工期がないない。なんて時間は短いんだ」とわめいていた。
すでにその状態になっている…

さらに考えると、学生時代だってそうだ。
受験勉強。勉強が間に合わないと嘆いていたから
もうとっくに時間は早かった。
夏休みも早かったーーー。

小学校にあがる前だって、
楽しいことはあっという間に終わってしまっていた。

物心つかないときは・・・
長かったろう。きっと。
けれど、さすがに覚えてない。

要は、責任や目的を持つことで時間のリズムは、
早回しになるらしい。

と言うことは、
責任を、目的を、楽しみを…
一切持たなければいいということか…
なんと簡単なことだろう。

でも、それって人間なんだろうか。

やっぱり、今が一番ということかな。