麝香…

「何…これ~~」

店の誰もが始めてこの香りに触れるとき
発する第一声だ。

麝香(じゃこう)ムスクともいう。
麝香鹿の香嚢本体である。
ここからとれる精油が、俗に言う媚薬などとも呼ばれる。

ワシントン条約の網にもかっかっているから
入手困難な状況。

お香の材料って、この先どうなるのかなあ・・・

彼岸花

彼岸の月。

墨田川沿いの公園の花壇に咲き乱れていた彼岸花。

先の台風が、ほとんど吹き飛ばしてしまっていた。

毒々しくも感じるほどの彼岸花の赤。

我が家では、
彼岸花を摘んで帰るのはご法度だったことを想い出す。

子供のころ、父の墓参りに横浜から小平の田舎まで
母に連れられて秋の彼岸に毎年出かけていた。

東横線で渋谷に出て、
迷い迷いしながら、国鉄に乗り換え、
当時は西武新宿線の始発駅だった高田馬場駅まで出る。
ここからがまた長かった。

小平が田舎?なんて思われるだろうが、
当時…昭和30年後半の西武新宿線は、新宿を過ぎると、
とたんに郊外の風景に変化した。
まだまだ、武蔵野の面影が子供心にも理解できるほど、
緑は多かった。

田無駅で鈍行に乗り換えるが、これがなかなか来ない。
枕木に生えるぺんぺん草を見つめたり、
視界を遮る何ものもない真っ青な空を、
飛び交うとんびの姿を見つめたり、
暫くホームで姉と遊び疲れた頃、
ようやく目的の電車がトコトコと入線する。

なんとものんびりした牧歌的な風景だった。

子供心にも遠くに来てしまったと、旅情を味わったものだ。

花小金井の駅からさほど遠くないところに墓所はあった。

線路脇に咲く赤い花を摘んでいけばよいのに、
わざわざ、花屋によって生花を買っていくのが不思議でならなかった。
あまりに不思議で一度聞いたことがあった。

母はいぶかしい顔をしながら、
「これは摘んじゃだめなの」

母にたしなめられた。

それが、後々、彼岸花ということを知った。

何故摘んではいけないのか、未だに理解していないのだが…
母には「死者の花」と刷り込まれていたようだった。
(墓参りなのにね)

だから、彼岸花を見るたびに、
その時の光景がふと浮んでくる。

肌で感じる

ネットで販売を創めたのが2000年の7月だから…
丸7年経ったことになる。
実は、1996年にカオリ・ドットコムという店名で、
ドメインも取得し、サーバーも依頼し、
開店準備をしていた。

訳あって、4年遅れで再スタートということに相成った。
遅れた理由は、業務委託先と連携が上手く取れなかったためだった。
全て整っての仕切り直しというのは、エネルギーが要るもので、
なかなか再スタートのスイッチを押せないものだ。

ECの世界もまだまだのどかな時代で、
黎明期にありがちな
共存共栄、共に盛り立てていこうとする気概に溢れていた。
そんな雰囲気に押されるように、
再スタートを切ることができた。

躊躇していた4年間にECの環境は大きく変化していた。
第一世代(自分ではそう呼んでいる)の先駆者に成功事例が続出し
「ネットでは物が売れる」と実しやかにマスコミも取り上げはじめていた。

いけいけムードが醸造され初めてきたということだ。

しかし、まだまだ古きよき時代の牧歌的ムードも残っていて
独特の世界があった。
今のように初めからシステマチックであったり、
スパンが横行するこんな時代だったら、

果たして手を出す気になっただろうか。

他人任せで運営を考えていた反省から、
この7年は全て一人でこなしてきた。

一人でこなすと言うことは、何から何までということで
いっさい業務委託はしないということで、両刃の剣だ。

一人で運営している一番の利点は、お客様の動向が店に立つより
肌身に沁みて感じさせられるということ。

困るのは、
時間がとにかくない。
時間の速度が速すぎる。
独り言が多くなった。

浅草の店には、ネット経由でお出でいただいたお客様が
目に見えて多くなっている。

主従で考えるならば、明らかに過渡期にある。
店舗主導とは、考えにくくなっている。

導入としてのネットは、
もう欠かすことのできないツールとなっているのだ。

観音の原点

母は偉大だと思う。

「子供が大きくなってきたら、何考えているのかわからない」
4人の息子ドモは、思春期ということだろうか、
母親には理解困難になってきた。
あいにく母親の味方が当家にはいないものだから、
相談相手は俄然、僕一人となる。

中学、高校時代の自分はどうだったかなと想い出す。
たしかに一筋縄ではいかなかっただろう。

親と同伴するなんて考えられないことだったし、
まともに受け答えすることもなかったような気がする。

男の子は、お母さんに対しシャイなんだよね。

小学校時代のようにはいかない接し方に、
母親としては戸惑い、また寂しいのだろう。
でも文句を言いながらも、
料理を作ったり、世話を欠かさないんだから…

母親は、すごいと思う。

観音様の姿に母親をダブらせる気持ちが
痛いほどわかる。

英霊にきく

38歳の時から縁があって靖国神社に参拝に出かけている。
縁というのは、僕を可愛がって下さる父親のような、師匠のような
天台宗のお坊さんとの出逢いが、
毎月初めを参拝の日と決めた要因だった。

それ以前から、神社の崇敬会とは縁があったのだが、
足を運ぶところまでは心が動かなかった。

ただ、歴史大好き人間として、近代史は謎が多くて
いつか解きたい問題ではあった。

師が日韓仏教福祉協会という会を主催し、
月初めは欠かさず参拝していることを知り
金魚の糞の如く様でご一緒させていただいたのがきっかけだった。

自分の中には、近代史特に昭和史がすっぽりない。
生きた語り部が回りにいくらでもいた時代に生きながら
まともに系統立てて認識した記憶がない。
苦労話は、若者の心に「またか」の印象しか
残さなかったのかもしれない。

学校で歴史の授業では、ちょうど昭和史は3学期の末になる。
明治維新前までは、ことさら細かく勉強するが
現代史に入ると、何故か急行列車の如く
授業内容は、はしょるわはしょる。

大きな歴史的事実は記憶にあるが、
大枠のみで、なぜにそれに至ったかは、
疑問符を残したまま生徒に委ねられた格好だった。
委ねられてもね…

そんな印象が強い。

生きた人間がそこに感じ取ることができなくて、
近代史はどうも好きになれない要因でもあった。

今でこそ靖国神社が取りざたされることが多いためか
遊就館という資料館があることも一般的になった。
初参加の頃、ぼくには、ここは全くの異空間だった。

九段の母を唄うのがせい一杯の知識だった。
当時は、改装される前で今のようなオープンさはなくて、
古めかしい旧館のみで展示していたが、かび臭くて
歴史が押し込められていると言う形容がぴったりの雰囲気だった。

改めて指折り数えてみる。14年続けてきた。
英霊の気持ちにささやかでしか応えられないもどかしさはあるのが
確実に抜けていた昭和史が、徐々にではあるが埋められていくのが
実感としてわかるようになった。

イデオロギーの眼鏡をはずして事実として直視することが
必要な作業であることを感じて止まない。

青春 朱夏 白秋 玄冬

「いつまでも青春と思いたい」
と話していると、友人から
50歳は「朱夏」というんですよ教えられた。
「青春であり続けるとは、子供のままでいるということと同じ」

青春には青春の、
朱夏には朱夏の生き方があるというものと、
たしなめられた。

人生には青春 朱夏 白秋 玄冬がある。

もともと陰陽五行説からの考え方であるが、
人生に春夏秋冬があり、それがふさわしい生き方、指針となる。
春の時期に生き方を悩み考え基礎を作る。
夏の時期は、その土台を元に行動する時期。
秋には刈り取りの時期、そして冬…

その時期相応した生き方、考え方というのがあるはずなのだ。

「人は突然人生を引き算で考えはじめる」という。
あと何回こういうことができるだろう…
何回ここに来れるだろう…
何年生きれるだろう…
と考えはじめる。

青春の時期は、そんな期限は感じられないのだから。
考えはじめたら、
そのときが変わり目なのだろう…

若かりし頃、「33歳が自分の人生の全てだ」
突然天の声のようにドーンと思い込んでしまったことがある。
22~3歳の頃だったと思う。
「思い込み」と言えば思い込みなのだけれど、
何がそうさせたか、今では思い出せない。
ただ、素直にストンと腑に落ちてしまった。

もしマイナスのエネルギーでそう思い込んだのだとしたら、
厭世観に苛まれたのかもしれない。
けれど、じゃあ残されている10年間、
「何でもやってやろうじゃないの」と、
チャレンジすることにエネルギーを方向付けた。

その方向付けがなかったら、
今の僕はなかっただろう。
とっくに青木ケ原だったかもしれない。

もしかすると、
ぼくは、また一回り終わって、
二周目の青春にいるのかな…。

「忠告を理解していないな」と友人に怒られそうだ。

持ち続けるもの

区内は、ままチャリで用の足りるので、
暑かろうが、寒かろうが、
よほどの天候でない限り銀輪部隊で行動する。

自転車の丁度良い速度と小回り性は、
新しい出会いに遭遇できる魔法の機械なのだ。

つくづくこの町が空襲被害を受けなかったら、
(さらに言えば関東大震災も含めて)
どれほど歴史の香りと下町情緒を残す。

いとおしい町だったのだろうと思うことがある。

それじゃあ、愛着がないとでも言いそうな、
表現に聞こえるけれど決してそうではない。
見える史跡という外観がなくなった分、
語り伝えてくれる人が多いのも事実だ。

だから、僕の頭の中には、
空想で、町のイメージが創られるに及んでいる。
さらに古地図好きの習性は時代時代の町並みを蘇えらせ、
3D画像でインプットされている。

小さな祠を偶然見つけても、いや、昔はこうではなかった。
諸藩の上屋敷にあったはずだから、
その鎮守だの分社だのとつい想像してしまう。

念珠堂のある雷門のこの通りですら、
今では想像できぬほど情緒があったようだ。
今では、商店街を作る話が持ち上がるほど、
人通りを目当ての店が増え、賑わいのある通りとなったけれど、
昔は、お稲荷さんがこの通りにあって、それを目当ての
参拝の足が絶えなかったという古老の話も聞いた。

浅草寺への表玄関は駒形堂からであり、
大店が軒を連ね、町のスケールは、
今より一回りも二回りも大きかったように想像するに難くない。

浅草広小路という名称も、並木町、材木町などの町名も
いつの間にか消えてなくなりはしたが、原風景を
心にさえ絶やさない限り、「風情」はどこかで振子が戻るように
修正されていくのじゃないだろうかと、
ささやかな期待を持ち続けている。

今が一番

早い、早い、早い。
なんて時間の経過が早いんだろう…

明日で、8月も晦日になってしまう。

ついこの間まで、梅雨が明けるだのどうのと
話題になっていたかと思えば、
猛暑日の毎日で苦しんで、いたというのに。
もう秋口。

いつからこんなに時間と競うようになったのだろう。
つい考えてしまうほどに時間が早い。

WEBの仕事を始めてからは、
昼夜がないためか、激流のように問答無用に早い。

でも店を始めた30代の頃から、時間は早いぞ。
資金繰りを考え考えしていたからだろう。
毎月「もう晦日だ」としょっちゅう追われていたもの。

いやいや、
土木屋だった20代の頃は、工事の進捗に
工程管理表とにらめっこしながら
「工期がないない。なんて時間は短いんだ」とわめいていた。
すでにその状態になっている…

さらに考えると、学生時代だってそうだ。
受験勉強。勉強が間に合わないと嘆いていたから
もうとっくに時間は早かった。
夏休みも早かったーーー。

小学校にあがる前だって、
楽しいことはあっという間に終わってしまっていた。

物心つかないときは・・・
長かったろう。きっと。
けれど、さすがに覚えてない。

要は、責任や目的を持つことで時間のリズムは、
早回しになるらしい。

と言うことは、
責任を、目的を、楽しみを…
一切持たなければいいということか…
なんと簡単なことだろう。

でも、それって人間なんだろうか。

やっぱり、今が一番ということかな。

野麦峠

富士山狂想曲を書いたら、

はじめての峠越えのことが頭から離れなくなった。

山本茂美の「あゝ野麦峠」女工哀史を読んで、どうしても行きたくなった。
19歳の夏のこと。

当時は、社会にひたすら疑問を持っていた時期だった、
胸を打たれて、衝動的に電車に飛び乗った。

横浜から名古屋経由で高山までは輪行(自転車をばらして持ち運ぶこと)だった。

レーサーシャツに短パン、レーサーシューズのいでたち。
今思うと、何とも恥ずかしいいでたちだった。
(今は珍しくなくなったけれど)
当時としては、かなり突拍子も無いスタイルだったろう。

夜明けと共に高山の駅に降りたった。

ロードレーサーを駅前で組み立てた。
余分なパーツが無い分、
あっという間の組み立てだった。

けれど走り始めたのは、多少日が高くなっていたように記憶する。
スローなスタートだった。

女工哀史にならって、本番の野麦峠の前に美女峠という小さな峠を越えた。
なだらな上り坂。難なく越えたがエネルギー消費。

ただ、本命の野麦峠へのアプローチに入る頃には、
正午を過ぎていた。
真夏のこととは言え、山越えの時間としては若干遅かった。

飛騨側の路面は、多少荒れてはいたけれど、舗装路の上り坂。
寝不足の体には、少々つらかった。

途中、水のみのため、
写真撮影のため、
と称しては休み休み、峠に立ったときは、
日は、西に傾き始めていた。

すでに太陽はオレンジ色に染まり始めていた。
建て直されたお助け茶屋は、予想に反し近代的で
お茶を一服いただいて、早々に小屋を出た。

席を立つころは、すでに3時を過ぎていたと思う。
泊まりの設備もあったようだが、仕事が待っている
意地でも一日で越えたかった。

これから松本側への下りが始まる。
山道は、あっという間に日が暮れるから、不安もよぎったのだが。
「下りだろ。大丈夫。大丈夫」

自ら鼓舞し、泊まり客の間をすり抜けて
弱き心を振り切って、松本側に滑り出すことにした。

さあ・・・。
ここからが地獄の一丁目の始まりだったのだ。
初夏とは言え、山の日暮れは極端に早かった。

ロードレーサーで行ったということは、
夜間を走るつもりはなかったのだ。

携行品と言えば、小さなリュックに、
非常食と雨用のウインドブレーカーのみ。

そんな状態だから、もちろん前を照らすライトなど
準備しているはずもなかった。

今となっては、どうしてそんな軽装で出かけたのか、
全く思い出せない。
ライトを持っていなかったことは、
文字通り「後悔先にたたず」だった。

峠を少し下ると、数メートル先で舗装は切れた。

「関」はさすがにないが道路の状況でそこが県境であることがわかった。
曲がりなりにも簡易舗装の飛騨側から、一気に江戸時代に逆戻りした。

道は両側がうっそうとした熊笹で覆われるから薄暗い。
女工悲史では、この熊笹の獣道を越えて行った事が描かれていたっけ。
道幅こそ当時よりは格段に広かったが、
車一台やっと通れる細い九十九折の林道だった。
しかも急坂だ。

地道の路面は荒れて、しかも、こぶし大のバラスが、
不均等に敷き詰められていた。

山の伏流水で洗い流されたのだろう、ごつごつした岩肌が
所々露出し、ときには抉られて、その落差で自転車もろともこけた。

とても、レース用の細いタイヤで走れるような代物ではなかった。

試しに、空気圧を高めに入れて、数百メートル走りはしたが、
見事にパンクしてしまった。
(レーサー用のタイヤは、パンク修理に針と糸が必要なのだ)

ここで、予備タイヤを使ってしまった以上、
松本までの数十キロをもうパンクさせるわけにはいかなくなった。

予想外の展開に、十分もかからず駆け抜けるところを
1時間以上歩いて下ることとなった。

しかも、金属プレートを打ち込んだ、
レーサーシューズで。

そんなときに限って、「ああ野麦峠」の一節が脳裏を掠めるのだ。
故郷の土を踏めずに亡くなっていった女工たちの心境が
みごとに湧き上がってくる。

道は狭く、熊笹に覆われて、足元もおぼつかない。
なんとも心細い話であった。

ついでにカラスまで、不気味に鳴いて驚かす。

ようやく浮石のなくなり、舗装のある地点まで下がると、
日はとっぷりと暮れて、夕闇が迫っていた。

本来なら松本までの20kmを越えるダウンヒルを
豪快に楽しむはずだった。

しかしすでに闇。
人っ子一人いない山の中。
ライトは、腕に付けるレフ(赤色灯)のみ。

ままよと下った。
泣きっ面にさらに困ることが起きた。
新月だったのだ。
全くの暗闇で道が見えなくなった。
不幸中の幸い、舗装路に出た。

舗装路のセンターラインが薄っすらぼやけて見える。

けれど、道は渓谷沿いに下るので、一歩間違えば「ドボン」
恐ろしい話だ。
泣きたくなるとは、こういうことを言うんだろうな。

昼間なら、気味の悪い随道も、
このときばかりは、水銀灯のオレンジ色の光に、
九死に一生を得る心持ちだった。

ダムを越え、若干の上り下りをとにかく、
猛スピードで通過した。

人は、疾走する僕の形相をどんな姿に見ただろう。

松本の町の明かりが見えたときは、
ほぼ放心状態にあった。

こんな思いをしはずなのに、
また走りたくなるとは、どういう構造なのだろう。

夏の終りに

20歳の8月だった。

もう少し早い時期だったと記憶しているが、
何せ古い資料は破棄されてしまっていて、よくわからない。

仕事場の先輩ら4人で富士山に登った。
夜中の12時に5合目を出発し、ご来光を仰ごうと言う計画だ。
2人は山岳同好会、1人は後に自転車の世界に引きずり込んだ
先輩だったが当時は、単に登山としてついてきた。
そして僕は、初めて富士山に登るというのに、愛車を伴っての参加だった。

その頃ようやく山岳サイクリングという用語が同好誌に取り上げられるようになった。
もちろんマウンテンバイクのマの字もない頃であって、いつもの愛車を下り専用に改造した。

「夏の終りに」というテーマで、富士山を頂上から自転車で下る写真が紹介され、大いに魅せられた。

当時の僕は自転車で峠越えばかりしていたこともあって、
体力には多様自信があったのだと思う。

しかし、山の状況も調べもせず、他のメンバーが小さいザックのみの軽装に比べ、僕は軽いとはいえ12kg超の自転車を、担いでの登山だった。

「若い」というのは、「闇雲」「無茶」という言葉と同義語なのだろう。
とにかく豪快に下ってみたい。
人がすでにやっているのだから大丈夫だ程度で心が動いた。

少しでも乗れるところは乗ろうと考えていたが、甘かった。
5合目からのアタックとはいえ、歩き初めから胸突き八丁の階段の連続。
それでも8合目までは、比較的砂地に足を取られながらも、夜空を楽しむ余裕があった。

ところが、8合目半を過ぎたころ、急に霧が出始めた。
「ご来光を楽しみにここまで登ってきたのに」少々気落ちする。

9合目を過ぎると本格的に小雨に変わっていた。
雷も鳴っていたが、下界から聞こえた。
避雷針を担いでいるようなものなのに、まあよく無事だったものだ。
もう少し上ならいちころだったろうに。

極端な気温の低下で体力が急に消耗し始めた。

頂上が目と鼻の先に見える頃、明るくなった。
本来なら、ご来光だったのに…

山小屋は、雨を避けて超満員状態だった。
「自転車持って来た奴がいるぞ」
どこか遠くで物好きなと言わんばかりの声がしたが、もうあかん。

安堵感に緊張の糸が切れた。
なりふり構わず、人を掻き分けるようにしゃがみこんだ。
気が遠のくのがわかった。
全く動けなくなくなった。

小一時間、気を失っていたのだろうか。
目を覚ますと仲間はいなかった。

その頃には体力がうそのように回復していた。
待ちくたびれて痺れを切らしそうになった頃、
「残念だったねえ」とからかいながら彼らは山小屋に戻ってきた。

仲間は、さらに上にある神社まで行って来たのだという。

余裕があってうらやましいと思いながらも、
「僕の本当の目的はこれからなのだ」

彼らはこれから延々と2000mを足で下らなければならない。
ぼくは、サーと、さっそうと下りを楽しむ。
(ざまあみろ)

自ら慰めながら、下りのルートを探すため周りを見渡した。

そこに目的のブルドーザー道を発見した。

頂上の観測所や山小屋への物資を運ぶ為に作られたブルドーザーの為の道。
これが今回の登山の目的だった。

見ると、
山道は富士の山肌に張り付くように、草木一本生えていない急勾配で、
はるか下界に消えていた。

小雨は霧に変わっていた。
砂地は雨で絞まり、タイヤで下るには好都合となっていた。

(しめた)

「じゃあまた逢いましょう」

さっそうと、手を振って走り去ろうと百mほど下った。
期待以上に出るスピードをコントロールしようとした。

瞬間…

空が下に見えた。
ドッサー!ザザザー

背中から砂地に叩きつけられ砂に埋もれた。
(ううう…息ができない・・・)

一瞬にして、自転車もろとも宙返りをしてのけた。
狂喜乱舞の下りはあっという間に終わった。
(ちゃんと5合目まで下りました。雷が激しくなってそこまで)


頂上から少し下った。このあと空中回転したんだよなあ

またいつかやってみたいなあ…
夏の終わりが近づくと、いつも頭をもたげてくる。