野麦峠

富士山狂想曲を書いたら、

はじめての峠越えのことが頭から離れなくなった。

山本茂美の「あゝ野麦峠」女工哀史を読んで、どうしても行きたくなった。
19歳の夏のこと。

当時は、社会にひたすら疑問を持っていた時期だった、
胸を打たれて、衝動的に電車に飛び乗った。

横浜から名古屋経由で高山までは輪行(自転車をばらして持ち運ぶこと)だった。

レーサーシャツに短パン、レーサーシューズのいでたち。
今思うと、何とも恥ずかしいいでたちだった。
(今は珍しくなくなったけれど)
当時としては、かなり突拍子も無いスタイルだったろう。

夜明けと共に高山の駅に降りたった。

ロードレーサーを駅前で組み立てた。
余分なパーツが無い分、
あっという間の組み立てだった。

けれど走り始めたのは、多少日が高くなっていたように記憶する。
スローなスタートだった。

女工哀史にならって、本番の野麦峠の前に美女峠という小さな峠を越えた。
なだらな上り坂。難なく越えたがエネルギー消費。

ただ、本命の野麦峠へのアプローチに入る頃には、
正午を過ぎていた。
真夏のこととは言え、山越えの時間としては若干遅かった。

飛騨側の路面は、多少荒れてはいたけれど、舗装路の上り坂。
寝不足の体には、少々つらかった。

途中、水のみのため、
写真撮影のため、
と称しては休み休み、峠に立ったときは、
日は、西に傾き始めていた。

すでに太陽はオレンジ色に染まり始めていた。
建て直されたお助け茶屋は、予想に反し近代的で
お茶を一服いただいて、早々に小屋を出た。

席を立つころは、すでに3時を過ぎていたと思う。
泊まりの設備もあったようだが、仕事が待っている
意地でも一日で越えたかった。

これから松本側への下りが始まる。
山道は、あっという間に日が暮れるから、不安もよぎったのだが。
「下りだろ。大丈夫。大丈夫」

自ら鼓舞し、泊まり客の間をすり抜けて
弱き心を振り切って、松本側に滑り出すことにした。

さあ・・・。
ここからが地獄の一丁目の始まりだったのだ。
初夏とは言え、山の日暮れは極端に早かった。

ロードレーサーで行ったということは、
夜間を走るつもりはなかったのだ。

携行品と言えば、小さなリュックに、
非常食と雨用のウインドブレーカーのみ。

そんな状態だから、もちろん前を照らすライトなど
準備しているはずもなかった。

今となっては、どうしてそんな軽装で出かけたのか、
全く思い出せない。
ライトを持っていなかったことは、
文字通り「後悔先にたたず」だった。

峠を少し下ると、数メートル先で舗装は切れた。

「関」はさすがにないが道路の状況でそこが県境であることがわかった。
曲がりなりにも簡易舗装の飛騨側から、一気に江戸時代に逆戻りした。

道は両側がうっそうとした熊笹で覆われるから薄暗い。
女工悲史では、この熊笹の獣道を越えて行った事が描かれていたっけ。
道幅こそ当時よりは格段に広かったが、
車一台やっと通れる細い九十九折の林道だった。
しかも急坂だ。

地道の路面は荒れて、しかも、こぶし大のバラスが、
不均等に敷き詰められていた。

山の伏流水で洗い流されたのだろう、ごつごつした岩肌が
所々露出し、ときには抉られて、その落差で自転車もろともこけた。

とても、レース用の細いタイヤで走れるような代物ではなかった。

試しに、空気圧を高めに入れて、数百メートル走りはしたが、
見事にパンクしてしまった。
(レーサー用のタイヤは、パンク修理に針と糸が必要なのだ)

ここで、予備タイヤを使ってしまった以上、
松本までの数十キロをもうパンクさせるわけにはいかなくなった。

予想外の展開に、十分もかからず駆け抜けるところを
1時間以上歩いて下ることとなった。

しかも、金属プレートを打ち込んだ、
レーサーシューズで。

そんなときに限って、「ああ野麦峠」の一節が脳裏を掠めるのだ。
故郷の土を踏めずに亡くなっていった女工たちの心境が
みごとに湧き上がってくる。

道は狭く、熊笹に覆われて、足元もおぼつかない。
なんとも心細い話であった。

ついでにカラスまで、不気味に鳴いて驚かす。

ようやく浮石のなくなり、舗装のある地点まで下がると、
日はとっぷりと暮れて、夕闇が迫っていた。

本来なら松本までの20kmを越えるダウンヒルを
豪快に楽しむはずだった。

しかしすでに闇。
人っ子一人いない山の中。
ライトは、腕に付けるレフ(赤色灯)のみ。

ままよと下った。
泣きっ面にさらに困ることが起きた。
新月だったのだ。
全くの暗闇で道が見えなくなった。
不幸中の幸い、舗装路に出た。

舗装路のセンターラインが薄っすらぼやけて見える。

けれど、道は渓谷沿いに下るので、一歩間違えば「ドボン」
恐ろしい話だ。
泣きたくなるとは、こういうことを言うんだろうな。

昼間なら、気味の悪い随道も、
このときばかりは、水銀灯のオレンジ色の光に、
九死に一生を得る心持ちだった。

ダムを越え、若干の上り下りをとにかく、
猛スピードで通過した。

人は、疾走する僕の形相をどんな姿に見ただろう。

松本の町の明かりが見えたときは、
ほぼ放心状態にあった。

こんな思いをしはずなのに、
また走りたくなるとは、どういう構造なのだろう。

夏の終りに

20歳の8月だった。

もう少し早い時期だったと記憶しているが、
何せ古い資料は破棄されてしまっていて、よくわからない。

仕事場の先輩ら4人で富士山に登った。
夜中の12時に5合目を出発し、ご来光を仰ごうと言う計画だ。
2人は山岳同好会、1人は後に自転車の世界に引きずり込んだ
先輩だったが当時は、単に登山としてついてきた。
そして僕は、初めて富士山に登るというのに、愛車を伴っての参加だった。

その頃ようやく山岳サイクリングという用語が同好誌に取り上げられるようになった。
もちろんマウンテンバイクのマの字もない頃であって、いつもの愛車を下り専用に改造した。

「夏の終りに」というテーマで、富士山を頂上から自転車で下る写真が紹介され、大いに魅せられた。

当時の僕は自転車で峠越えばかりしていたこともあって、
体力には多様自信があったのだと思う。

しかし、山の状況も調べもせず、他のメンバーが小さいザックのみの軽装に比べ、僕は軽いとはいえ12kg超の自転車を、担いでの登山だった。

「若い」というのは、「闇雲」「無茶」という言葉と同義語なのだろう。
とにかく豪快に下ってみたい。
人がすでにやっているのだから大丈夫だ程度で心が動いた。

少しでも乗れるところは乗ろうと考えていたが、甘かった。
5合目からのアタックとはいえ、歩き初めから胸突き八丁の階段の連続。
それでも8合目までは、比較的砂地に足を取られながらも、夜空を楽しむ余裕があった。

ところが、8合目半を過ぎたころ、急に霧が出始めた。
「ご来光を楽しみにここまで登ってきたのに」少々気落ちする。

9合目を過ぎると本格的に小雨に変わっていた。
雷も鳴っていたが、下界から聞こえた。
避雷針を担いでいるようなものなのに、まあよく無事だったものだ。
もう少し上ならいちころだったろうに。

極端な気温の低下で体力が急に消耗し始めた。

頂上が目と鼻の先に見える頃、明るくなった。
本来なら、ご来光だったのに…

山小屋は、雨を避けて超満員状態だった。
「自転車持って来た奴がいるぞ」
どこか遠くで物好きなと言わんばかりの声がしたが、もうあかん。

安堵感に緊張の糸が切れた。
なりふり構わず、人を掻き分けるようにしゃがみこんだ。
気が遠のくのがわかった。
全く動けなくなくなった。

小一時間、気を失っていたのだろうか。
目を覚ますと仲間はいなかった。

その頃には体力がうそのように回復していた。
待ちくたびれて痺れを切らしそうになった頃、
「残念だったねえ」とからかいながら彼らは山小屋に戻ってきた。

仲間は、さらに上にある神社まで行って来たのだという。

余裕があってうらやましいと思いながらも、
「僕の本当の目的はこれからなのだ」

彼らはこれから延々と2000mを足で下らなければならない。
ぼくは、サーと、さっそうと下りを楽しむ。
(ざまあみろ)

自ら慰めながら、下りのルートを探すため周りを見渡した。

そこに目的のブルドーザー道を発見した。

頂上の観測所や山小屋への物資を運ぶ為に作られたブルドーザーの為の道。
これが今回の登山の目的だった。

見ると、
山道は富士の山肌に張り付くように、草木一本生えていない急勾配で、
はるか下界に消えていた。

小雨は霧に変わっていた。
砂地は雨で絞まり、タイヤで下るには好都合となっていた。

(しめた)

「じゃあまた逢いましょう」

さっそうと、手を振って走り去ろうと百mほど下った。
期待以上に出るスピードをコントロールしようとした。

瞬間…

空が下に見えた。
ドッサー!ザザザー

背中から砂地に叩きつけられ砂に埋もれた。
(ううう…息ができない・・・)

一瞬にして、自転車もろとも宙返りをしてのけた。
狂喜乱舞の下りはあっという間に終わった。
(ちゃんと5合目まで下りました。雷が激しくなってそこまで)


頂上から少し下った。このあと空中回転したんだよなあ

またいつかやってみたいなあ…
夏の終わりが近づくと、いつも頭をもたげてくる。

ドキュメントファン

抜けてる記憶、情報、背景を埋めていくとでも言うのだろうか。
子供の頃からドキュメントを好んで観ていた。

現代の記録

昭和37年8月11日放送
現代の記録 避暑の断面
疲れているのにNHKアーカイブスだけは見逃せなかった。

ぼくがちょうど7歳の時期世の中はこうだったのかと確認できるから
つい夜更かしをしてしまうのだ。

案の定、当時のドキュメントの撮りかたはシリアスだった。

上層階級の余暇が高度経済成長と共に大衆化していく。
レジャー資本とマスコミの影響で中産階級の意識が変革されていく・・・云々

見ていると上層階級というものがかつての日本には頑としてあって、
階層社会を戦後は次々に塗り替えてきた。

そんなに重い話題ではないと思うのだが、労働運動華やかなりし頃ゆえか、
やたら小難しい用語がアナウンサーの口から飛び出す。
時代を映していた。

でも社会の圧を感じる創りだ。

これが当時のドキュメントの作り方だったんだろうが虚しい空気が漂う。
よく子供時代から好んで観ていたものだと思う。

すると、結果としてこんな人間になるのかなあ。

家族サービス

たまーに行う家族サービスは、
何故にこうエネルギーを使うのだろうか。
仕事で2、3日徹夜したほどに疲れる。

普段つかわない筋肉や神経がそうさせるのだろうか。
もうふらふら。

夏休み

明日は、野暮用でどうしてもお出かけ。
相棒も「家族サービスしたいから休ませてくれい」
と聞かないものだから、
10年ぶりにお店はお休みとあいなった。

秋には、お餅つきでまた日曜日に休む予定なのだけど、
まさかこれに味をしめて、相棒の奴、
「親孝行したいから休む」なんて意わんだろうなあ…

などと思いつつ、明日は久しぶりに羽を伸ばすのだ。
と言ってもコブ付きだからなあ…

友よ遠方より…

近くに、ランドマークがあるというのは、
なんとも頼りがいがある。

何かちょっとしたお話をしたいときには、
町の喫茶店に入ったり、なんやら探し回る必要もなく
あ!じゃああそこに行きましょうと難なく指をさせ、
説明もすくなに決める事ができる。

赤い鉄の橋を渡れば、
そこに着く。

見上げるその先に突き出した泡の中。
展望喫茶が見える。

ランドマークの少ない浅草にあって
ここは、ちょうどよい集合場であり、
茶話会場であり避暑地である。

次に何処へ行こうか行き場を探す
観覧車の代わりともなる。

ニコニコマークの猫バスに乗ってこられたM氏と、歓談させていただいた。
80歳をとうに超えられたとは思えない元気よさと、気持ちのよさに
大先輩ということをつい忘れさせてくれる。

まだ数回しかお会いしていないと言うのに
旧知のように錯覚してしまうのは

人との出逢いが、縁ものである事を痛感させられのだ。

別れが名残惜しかった。

走る

「夏の終り」となると、自転車に乗りたくてうずうずしてくる。

ただ、乗っていなかったブランクは、
みごとに体に反映し、
胴は太り、足は細り
「走ると足が見えなくなるよ」
「漫画のように足が円に見える」と言われたことは、
すっかり昔話になってしまってはいる。

ぼくが自転車に乗るというのは、
ままチャリで近所をぐるりというのではないのだ。

自転車を担いで山を登るか、
八ヶ岳を遠望できる林道を廻るか…
(ああーいいなあ)

とにかく、やや高地のでこぼこ道をツーリングしたくなる。

この季節、高地では陽射しは強くとも、
風は爽やかになる。心地よい風景と風に出会える。

そう思い出しながら、書きつらねてみたはよいけれど…

想いの中では軽快に走れていても…
実際は、きびしいだろうなあ。
このお腹と足じゃあ…

とおもいつつも、また、奮い立つのだ。

80歳超えても走っていたいから。

記憶

友人のブログを遡って読ませてもらっていると、
見覚えのある角度からの都電の写真と記事で、
ふと思い出された。

ぼくの父は明治40年に生まれた。
都の西北の学び舎で青春を謳歌した。
大隈公に心酔していた彼は、野心もあり、
同時に安定を好まず、実家の酒屋を飛び出した。

薬品の仲卸しの会社を興し、一時は隆盛を誇ったようだ。

「ようだ」としか表現できないのは、
僕が父と直接関わりあえたのは、3年間だったからだ。

事業を傾けてからの父しか知らない母の薫陶を受けて育った
僕の父親像と言うのは、頭はよいけど、
人が良くて騙され続ける、家族にはダメな男
という姿が焼きついていた。

高校時代、鉄道趣味の愛好誌のバックナンバーを買い求めに
東京の出版元を探し訪ねたことがあった。
何処にあったのか、今となっては記憶にないのだが、
雑司が谷のあたりだったように思う。

とにかく都電の見える光景だった。

横浜から高い交通費をかけてせっかく来た大都会東京の
しかも、鉄道マニアのぼくとしては、
憧れの都電を前にして、獲物に飛びつかないはずはなく、

衝動的に、早稲田方面の電車に飛び乗った。

学習院下、面影橋、早稲田とすぐに折り返し駅についてしまった。

電車を降りて見渡すとそこが父の青春時代を謳歌した所と改めて気付いた。
下町の匂いのするごちゃごちゃ感は、浜っ子の眼でも懐かしい光景に映った。

電停は、終点と言いながらその雰囲気はなかった。
都心に向けてまだ走れるかのように
10メートル近くレールも敷石もそのままだった。

路線は廃止されてはいたが、
レールの上にアスファルトを被せただけだったのだろう。
その先に目をやればレールの形どおりの舗装の盛り上がりが、
全てを物語っていた。

レールはアスファルトの中に吸い込まれやがて消えていた。

父の学生時代は、この上を東京市電に揺られて通っていたのだろうか…

不思議な感触を覚えた。

プロ意識

24時間テレビを本当に久しぶりに見た。
ご多分に漏れず、
欽ちゃんのゴールに感動させられた。

だいぶ前、欽ちゃん劇場が浅草に発足した頃、
浅草お上さん会の招待で欽ちゃんがみえた。

どんな挨拶をするのか興味をもって聞いていると、
「浅草の町は優しくなくなった」
と、独特の笑顔ながらもズバリと指摘した。

六区の通りも往年の勢いを感じられず、
歴史のあるエンターテイメントに活力がそぎ落ち、
危機感から浅草のお上さんたちが立ち上がった。

そんな援軍として浅草育ちの芸人の欽ちゃんが
一家を引き連れて浅草に戻ってきたのだった。

その挨拶が、「やさしくない」
なのだった。

あまりに的確な指摘で驚いた。
優しくなったかならなかったかは、
お客様が機敏に感じられることと下駄を預けるが、
まさしく基本中の基本、原点中の原点と、
心に焼き付いている。

もう十数年前の話だ。

昨日のゴール場面を見ていて
プロ意識を見せてもらったきがする。

何年かぶり…
いや二十何年かぶりになる。
24時間テレビに関心をもっている。

番組中、ベトちゃん、ドクちゃんのその後を放送していた。

ベトナム戦争時アメリカ軍が使用した
枯葉剤の影響で、今も苦しむ人々がいることを伝えていた。

長引く戦争の厭世観と、奇襲されるベトコンの恐怖から
業を煮やしたのだろう。
様々な化学兵器を繰り出すに及んだ。

戦争のその瞬間は、一時代のものとして、
過去のできごととして置き去りにされていく。

けれど、残された現実は、
間違いなく当事者には置き土産されているのだ。
しかも代々に渡って。

昔。といっても20年ほど前のことだろうか、
たまたまつけていたラジオからニュースが流れていた。

自動車事故だった。

ある母親が運転するワンボックスカーの事故だった。

サンルーフを開けて走っていたという。
幼稚園の送り迎えだったのだろうか。
友人も含め5人の子供が同乗していた。

こともあろうに
後部座席からシートの上に立ち、
首を出して風邪にあたっていたという。

車は、人の背丈ほどの電車のガードを通過した。
車がガード下に潜り込んだ瞬間、車内は地獄と化した。

後は語ることもはばかる光景だった。

ぼくは、当時その母親の立場を思い震撼し涙した。

「生き地獄」

ニュースとして聞く側は、無責任に終えることができる。
が、当事者は、十字架を担いだ。
まだまだそれからの人生があるのだ。

時間は流れた。
時が周りの人々から、
「記憶」を「忘却」と言う言葉に塗り替えてきた。

けれど、当事者の時は止まっているだろう。

どうしただろう…
いつも気になる。