なつかしい

部屋を片付けて
「これ捨てていいの。ズーとあるよ」
と、上さんに差し出された。

なに?これ。
パソコン通信…
オー…

90年の業界新聞だ。
何の気なしに読み返してみた。
「パソコン通信にチャレンジできる本格派」サンヨーワープロ
「PC国民機」ラップトップ型PC-286 16bit
「NEC文豪miniシリーズ」
「通信ネットワークを自分たちだけで使う」
「OLT(オンライントーク)パソコンの中でおしゃべりしあう。
これはまさに興奮の体験だ」

すべて、DOS画面でこうするといいよと、説明文が入っている。
時代を感じる。

特に目が留まったのは、
こんな時代からスペシャルメニューとして、
オンラインショッピング機能の紹介があった。
もうECが行われていたんだ。
初めて知った。

あいにくパソコン通信は、
やりかけながらドサクサのうちに流れてしまった僕としては、

その黎明期をやり過ごしてしまった。

今、当時を読み返してみると、実に新鮮に感じる。

仲間意識のある土壌の中である黎明期が、
懐かしいと感じるだけなのではない。
ともに作り上げていこうとしていた情熱を
思い起こしてくれるからなのかもしれない。

竹の心。

正月用の飾りで残っていた半分枯れていたものを
可愛そうに思い投げ入れていた。

水もそのときに入れたまんまの水。
仏様のお下がりを毎日入れ足してはいるが、
新しく入れ替えたことはない。

水を腐らすこともなく、
むしろ浄化している。

いつのまにか根っこがしっかり生えてきて、
新芽も出している。

強いなあ・・・しかも、足元を清々とさせ・・・

ここにきてようやく梅雨らしく、
天の神様も
神妙に雨をしとしと降らせるようにしてくれるようになった。

ちょっと前は、空梅雨ーー!と騒いで
雨が降らないと飲み水が困るぞーと思っていたけど、

降れば降ったで、お客さんの足が遠のく。
売り上げに影響するぞー…と騒ぐ。

身勝手で困ったものだ。

今日は今日でしか逢えない方が、
必ずいらっしゃるけれどね・・・

思慕

柏のOさん、春日部のJさん、大田区のFさん、埼玉のTさん、文京区のPさん、札幌のMさん、新潟のSさん、墨田区の・・・

しばらくいらっしゃらないなあ…
顔が見たいなあ。

父の背中

早いもので、
父親が逝った歳に近づいてきた。

3つになったばかりの秋に逝ってしまった父親の面影は、
おぼろげにも覚えていない。

父親がかわいそうにも思うくらい、
脳みその海馬の奥底にしまいこまれて、

記憶には全くない。

「片親じゃ大変な時代ね」と思うのは、
当時を生きた母と同年輩の人の話し。
それは育ててくれた側の話しであって、

子供の側は、いたって現状を受け止めていた。
ありのままに生きているものである。

なまじっか記憶の断片があると、
感傷に発展する種となったであろうから、
記憶が全くなかったというのはある意味、
幸いしたと思う。

都内のY大学を昭和初期に卒業し、
大学に残ることを勧められながらも 、
野心家の父は企業家の道を進んだ。

結果は事業は見事に大成功を収めたが、
補佐役の身内の裏切りと、
元来の人の良さと気風のよさは、
多くの負債を背負い込む結果となった。

惨憺たるものだったようだ。
結果、会社をたたむこととなった。

母と出会う頃は、過去の栄光の残光に照らされる中での
出会いだったようで、
程なく無職の生活を余儀なくされたようだ。

その直後、僕は生を受け、
バトンタッチするかのように父は彼岸に逝った。

「父の轍は踏んではいけない」
そう薫陶を受けながら育ち、
経済とはかけ離れた技術屋の道を選んだ。
はずなのだけれど・・・

気づくと、父の背中を追いかけている。

「親はなくとも子は育つ」とは、
よく言ったものだ。

父の失敗を繰り返させまいと、
注意注意しながら、育てられながらも、
父の轍(わだち)をきっちり踏んでいるのだから。

たとえ、口で教え込まれずとも、生を与えられた「動機」は、
きっと母の胎のなかで醸造され、
言葉ではない形を持って受け継がれていたのだろう。

しっかりと心に組み入れられているように感じる。

おかげで、人の良さと、義憤を感じる心は
どうしようもできないほどあるようで
生涯、貧乏道からは、はずれそうもない。

何度、大口のお客様であっても、
理不尽を目の前に見せられてぶつかってきただろう…
不誠実には耐えられないようにできているようだ。

でもしかたないと諦めている。
損得では動けないのだから。

自分が彼岸に渡ったとき、
父になんと言ってもらえるだろうか、

そんなことを、若干なりとも考えるこの頃なのだ。

未来を塞ぐもの

児童虐待…僕にはわからない。
大人になりきれない親が原因と言うけれど…

僕にはまったく!わからない。
わかりたくもない。
弱者に対して、いかなる蹂躙も許せない。

人は時がくれば否応なく川を渡らなければならない。
彼岸へと。

けれど、心の奥では、永遠に生きたいと願う。
僕も人間は永世するのだなと思う。
けれど、肉は自然界の中で循環するものである以上
物理的に無理な話。

何をもって未来に生きるか。
とすれば、心の部分が引き継がれることをもって
永世というしかない。

自分の薫陶を受けた子供や師弟しか、
未来を象徴するものはいないではないか。

一番身近で自分の未来を託す存在が子供。

虐待とはその未来を自ら塞ぐ行為
と受け取れる。

子供の人格を無視した瞬間から、未来はないんだよ、

未来は要らないという事なのだろうか…
それとも、自分のような存在は、
未来に残してはいけない、残したくないと、
潜在意識がそうさせるのか・・・

思わず嗚咽するよ。
小さな命に。

http://www.apca.jp/

一期一会

最近このブログを見ていただいている読者?の方が、
毎日コンスタントに1000人を越えている。

感謝すべきところなのです。

へそ曲がりゆえ、見てみぬふりをしているみたで
申し訳けないなあと思うので、

改めて・・・ありがとうございます

そして、これからもよろしくお願いいたします。

本当に毎日感じたことを書き散らしているだけで、

取りとめもなかったり、
身勝手な反応だったりと
反省もしきりなのが本音なのであります。

けど、一度書いたものは消さない。
一期一会と思って、素直な気持ちで
書き溜めてきたつもりなのでありますので、
まさにBooの日記(日記を公開するなんて考えるとおかしいけど)。

「しかたないやっちゃな」くらいに寛容な心で受け止めて下されば、
と、思うところです。

さあまた今日は、どんなゲストに合えるかなあ・・・

サンバ

浅草サンバカーニバルも今年27回を迎える。
すぐに消えちゃうかと思っていたが、
歳を追うごとに盛大になってきたようだ。

もともとは、パーカッションや太鼓の響きは、
大好きなBooなのでありますが、何でここ浅草でサンバなの?
と不思議でならなかった。

NHKで放送された「世界遺産」の番組を見て、
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr083.html
認識を少し変えさせられた。

番組は、世界遺産、サルバドールを舞台に
サンバカーニバルをレポートしていた。

16世紀に始まったポルトガルによるサルバドールへの奴隷の入植。
アフリカでは部族が異なると、神も言葉も違うのだそうだ。
奴隷として連れてこられた、この新大陸にあって、
営まれ続けた部族を超えた神への儀式がひそかに続けられた。

そこでは部族も言葉の違いも神の違いも全て超越し
強い連帯が生まれていった。
ニューファミリーの形成だった。

そのとき刻まれるリズム。
それがサンバの原型なのだそうだ。
悲しい文化ではある。
同時に現状を受け入れ明日にどう希望をつなぐかの
力強さも併せもっていると感じた。

土着の信仰から、キリスト教への改宗が進んでも
そのリズムを捨てることはなかったという。
逆にミサの中にそのリズムがつながれていった。

いつかキリスト教と結びつき、今に伝わったというのだ。

リズムの中から他人同士でも一家族となる。
というのが根底にある。

そんな深層部分があったのか・・・。

あ!なるほど。
信仰の町浅草、
日本中、世界中から人の集まる浅草で
カーニバルが行われる意味が少しばかり理解できた。

http://www.asakusa-samba.jp/index.htm

病は気から・・・だけじゃないよね。

つい先日のブログに「病は気から」と書いたばかりなのに
風邪をひいてしまったみたい。

ここ十五年近く風邪らしい風邪はひいた例がなかったというのに
ちょっと喉が痛いなあなどと言っている間に
みるみる熱が出てきてしまって、ついにアウトととなってしまった。

何度かそれらしい兆候はあっても、
「病は気から」を実践せんがために押さえ込んできた。
実際、押さえ込めてこれた。

が、が、が、熱まで加担してきたら、もうアウトだ。

昔は、玉子酒をくっと呑んで、
一晩布団に挟まれて大汗かけば、ケロとできたのに
まだ、熱を引きずっている。

病で気まで落としたくない。
こんな日は、今日でしか逢えない人がいるものさ。

さあ。一日頑張ろう。

縁を想う

指折り数えてみた。
僕の周りでお坊さんになった、つまり、受戒得度された方が、
何人いらっしゃるだろうかという思いから。

なんと、
両手に余るほどになっていた。はたと気付いた。

中には、僕が十数年前巡り合せがよければ
得度するはずだった師匠の下でお世話になっている方もあった。

いつもながら、縁とは不思議なものよと思わされる。

以前は、毎月の行事のように関西の往復を繰返していた。
当時の僕のこと、宿に泊まる事はまずありえない。
夜行日帰りという汽車の旅は昔よくしたところだが、

文字通り、車で夜行で出かけ、一日フルに動き
夜中の東名を走り朝浅草に着くというものだった。
もちろんその日から店頭に立っていた。

そんな強行軍の中でも必ず比叡山に立ち寄るのが、常だった。

体さえ病に冒されなければ、座主になられたであろうその御坊は
坂本の麓に居を構えておられた。

住職として住みこむまで、廃墟であったその院坊は
主の心を反映して、清楚ながら暖かいものを感じさせる
そんな佇まいだった。

また、伺うたびに四季折々の変化を見せて
目を楽しませてもくれた。

御坊は、生きながら死の行と言われる荒行12年籠山行を、
戦後初めて完遂した方であった。
行を終了した時点で、体からは、死臭がして
周りを驚かしたそうだ。

なのに、
「心はますます仏への帰依の心が
らんらんと燃え盛っているんだよ」

と、よく話してくれた。

熱烈な信仰心抜きには考えられない荒行であった。

しかし、そんな凄まじさを微塵も感じさせない笑みをもって
いつも僕を向かい入れてくれた。

住職が亡くなられて暫くたつが、もう何年出向いていないだろう。

お客様の一人に
その孫弟子として得度された話を偶然にも耳にして
「忘れるなよ」と、ポンと方を叩かれた気がした。

驚きよりも、「あ~そうか」と
結論を以前から予想していたような思いで充満させられた。

坂本はもうむし返るほどの緑の中だろう。