神の国

いつも行く喫茶店で、昼食のカレーをワフワフしながら、
ニューズウィークを斜め読みした。もちろん日本版だが。

日本のスピリチュアル熱について特集を組んでいた。
面白かったのが、「日本人の宗教観」について。

日本人は、神道の行事をこなしながら、
葬式は仏式で、結婚式はキリスト教式で行なう。
こうした感覚は、一神教の外人には不思議でならないのだという。

まあ日本人である自分も度々、不思議に思うのだから、
致し方ないかとも思った。

まあそこまでなら、よく言われていることだから、
「そうだよ」と答えるしかない。
想定内の話しだったが、
次の文章には、少しばかり考えさせられた。

「それほど多くの宗教を取り入れていながら、
人生観に影響するほど、宗教によって救われたと思う人はいない」

思わず苦笑した。

「また、信仰の力なしにひとつの国が、
うまく機能していることには好奇心をそそられる。

神がいなくても人は善良な存在でいられることも不思議でならない」

これは面白い感覚だと思った。

まあ、褒められているのか、
けなさっれているのかよくわからない文章だったけれど、

日本人は、八百万(やおよろず)の神々の住む神国で、
深遠な民族性なのさと答えたくなった。

原点

お客さまからのご依頼で、
ろうそくのページを急きょてこ入れしました。

http://www.nenjudo.co.jp/page/mituro.html

ページ全てをリニューアルしたかったものだから
どんどん後回しになって、工事中のまま、
1年以上ほっぽらかしのままになっていた。

尻に火がつかないと動かないようになってきてしまった…

あ!っと、そうじゃなかった。
そうじゃないよ。

足元に火が廻らないと動かないのは昔からなんだ。
動かないから、動くように、火をつけて廻ったんだった。

後悔しやすい人だから、後悔できないように、
渡った橋を落としてきたんだった。

付和雷同だから、前しか見ないようにしてきたんだった。

初心を忘れちゃいけない。

お客様のおかげで、
また、原点を思い出させてもらった。

パラオ

1日。
写経の日でもあったのだけれど、人に頼んで靖国神社に走る。

九段下の地下鉄出口から表に出ると、
青葉に溢れている大鳥居が目に付いた。

新芽の青い匂いは、
若いときはいやでしょうがなかったけれど、
今は、命の精気を感じて、なぜか力が出てくる。

もう桜も散って青葉が目にやさしい。

鳥居をくぐるとバスが10台以上留まっていた。
右翼の凱旋車にしてはおとなしいし、時期が違うなと思いつつ覗き込んで見ると、
「生長の家○○教会」遠いところは・・・オー。広島からの参拝だ。

忙しいとこぼしていても都内にいて、足をちょっと伸ばせば、
苦もなく来れる距離にいることは、なんと恵まれていることか。

浅草なんて近い近い。

今日の参拝記念は、乾菓子でした。

いつものように遊就館。

ちょうどパラオ展が開かれていた。

第一次大戦後31年間統治し、
教育や産業の振興に他の国に行なったように、
力を注いできたことも知らなかった。

国民の日本人への好感度は今でも高く、
その国旗やパラオ語になった日本語の多さにあらわれている。
約束、切手、電報、独立、恋人、寂しい、誕生日・・・etc

日本とパラオの関係がこれほど深いことをとを知らなかった。
浅学だなあ。ほんと。

見終わると、パラオに行きたくなっていた。単純な男。

駆け足で、見終わる。
飯田橋駅に向かう。
初めての道順で、方向音痴なので途中、地図を見い見い、
それでも見当ハズレになりながら歩く。

地図を見ると、○○坂というのがすこぶる多いことに気付かされた。
謂れを読みながら全部の坂を歩いてみたくなったが、ちょっとかなわない。

二合半坂を下りて富士見町をすり抜けて、駅に無事たどり着いた。

ドキュメントから

早朝の(世間的には真夜中の)番組に、
若年性認知症のドキュメントをやっていた。

途中からだったので、2例だけだったが、
一人は経営者を旦那に持つ主婦、
もう一例は、技術職の60代の男性だった。

女性はまだ軽い段階だけれど、
文字が書けなくなったのが一番のショックだったそうだ。

それはそうだろう、昨日までなんの苦もなく帳簿を管理していた人が、
突然字を書けなくなるなんて。想像するだに恐ろしいよ。

次の例は、奥様との二人暮し。
技術系の会社を経営していたご主人が、
この病気と診断されて、苦渋の選択で会社をたたむ。

奥様すら思い出せないときもあるほどに悪化する。
徘徊を始めたのが限界で、介護施設に入ることになる。

その前後をルポしていたのだが、もう目が釘付けとなる。

夫婦間で二人の間でしか読めない空気を読めなくなって、
共通の思い出も失い、最期は「いつもいるけど、あなたどなたでしたっけ?」

などと言われたら、自分ならどうなるだろう…

2例目の男性にあっては、技術屋が、ある日から、
急に図面が読めなくなったのだそうだ。

これは、ショックが大きい。

さしずめ僕の仕事なら、念珠が作れなくなるとか、
お金が数えられなくなる。
とでも言うことか…(喜ぶ人間もいそうだが)

これは、相手を理解しなければと思っても、
受容するのは、なかなかきびしいな。

というのが本音。

でも、病にかかった当の本人が、
何より苦しんでいることをこの番組の中で教えられた。

コピーをとるために機械のある二階に行くと、
「あれ?何しにきたんだっけ」を繰返すようになったり、

「あのときのあれは、あれしたっけ」式会話が増えてくる昨今、

決して人ごとに感じなくなりつつあるBooなのであった。

思いと行いは違うもの…

ここ3日間は、天候が思わしくないせいか、
お店もガーラガラ。

今日も、あまり天候は冴えないと知る。

なら、これもやって、あれもやって、ついでに、
いつも手が出せないで、上さんから「まあだ」
と、言われ続けているポスターの原稿も作っちゃおう。

朝、家を出るときは、資料を両手に持って店に出かけた。

午前中、まあ予想通り、お客さまも少なく、順調にこなせた。

それでもお客様で中座する時もあり、
そのたびに、画面を隠してリアルの仕事に戻る。

接客の仕事から戻ると、前の仕事を忘れて、
新しい仕事を始めてしまう。

あせっている。

しばらくパソコンの前に座っていると、

また、中座。
席を暖められないまま、そんなことが続いているうちに、
もう店を閉める時間。

気が付けば、何一つ終わらせていないことに気付いた。

電気を落とそうと、パソコンを覗くと、画面の中に、
ぎっしり中途半端な資料が、次の順番を待っていた。

ごめんね。今日はここまで。時間切れ。

友、逝く

友というには申し訳ないほど年上なのだけれど…
20年近くお付き合いしていた、
高岡銅器の卸元の営業が亡くなった。

彼の代わりに営業に来ていた、
若社長の報告で初めて知った。

去年の早春、時ならぬ雪のなか、
高岡まで見舞いに行ったその人だった。

自分のオヤジのような歳だった。

古いタイプの営業マンで、とにかく取引先に尽くす人だった。

物を売る前に、まず相手の声をよく聞いた。

合うたびに、昔はね…と懐かしそうに、
夜汽車に揺られ高岡から上野まで重い荷物を抱えて、
営業に来ていた話をするのが彼の定番だった。

職人よりも仕事を知っていた。

否、
「知る努力を惜しまなかった」と、言うほうが正しいだろう。

だから、職人でもない営業マンの彼の要求には、
頑固職人たちが、いとも簡単にうなずくのを見た。

仕事とはこうするもんだよと教えられた気がした。

二周りも三回りも年上なのに、小さなことにも、
全身で感動することを忘れなかった。

強面の顔がそのときだけクシャクシャになって喜ぶ。
その落差が面白かった。

「会社では、うるさいと煙たがられていますよ」と、
いつもこぼしていた。

そうだろうなあと僕も思った。
彼の営業マンとしての周到さや研究熱心さは、天下一品だった。

後輩がついてこれないのも当たりまえと思いつつも、
「大久保彦左衛門だね。そういう人が必要なのよ」といつもからかい励ましていた。

妙に気が合った。

「高岡に泊まりに来てよ。魚が美味しいからさ」と、

自分がでかい魚を吊り上げた写真を見せびらかしながら、
再三再四、聞かされた。

あまりにも僕の腰が重いので、最後には、
「じいが死んじゃったらどこも案内してあげれないじゃない」
と、冗談交じりの本気とも取れる言葉を口にしていた。

約束を果たせたのは、病に冒され、入院した
去年の早春が最初で最期の訪問だった。

自慢のクルーザーに乗せてもらうことも、ついにかなわなかった。

海の音が玄関先まで聞こえて来るんだよ…
泊まりにきてよ…

再開

毎日、300通も400通も来るスパンメールにうんざりする。
見たくも無い画像や、文章、
(美しくない画像や文章は罪だね)
あらぬ無責任な書き込みや…
詐欺まがいの蛮行…
はたまた、拝金主義を全面に押し立てるサイト…

あげたら、きりがないほどのダーティーな部分が露見してくるネット社会。
マスコミもそれ見たことか、と己の足元を隠して誇張しまくる。

その情報の殴り合いの狭間に我々は首をすくみながら
知らぬを決め込む。

40数年ぶりに小学校の友人とmixiの中で再会したのは暮のこと。

ここ最近になって、店にも顔を出してくれるようになった。
お互い不思議な感覚にとらわれる。
小学校卒業を目前に転校し、修学旅行もいけず終いの僕を
そうはっきりと覚えていていれるはずもない。
子供時代の記憶は、都合よくイメージで補修しているもの。

目の前にすると、とたんに修正画像されていくのだ。
あっという間に、40数年の「時」はレタッチされるのだ。

ネットがなかったら、
こんな再開は、果されはしなかっただろう。

今は過去の結果?未来の為?

人の死出の場に出くわすと言うのは、
当たり前のことだ、悲しいものである。

出会わない人は、本当にその場を経験しないで一生を過ごす。
縁のある人は、これでもかというほどに出くわす。

ちなみに僕は多い。

店に訪ねてくれた、Yさんとお話する機会があって
なんとも、不可思議なお話を伺うことができた。

話はこうである。
知人のお見舞いに九州まで足を伸ばした。
「ようこそいらしてくださいました」と病に付しながらのご挨拶。
いたわりの言葉を交わし、
「それじゃあまた」と言葉を発するか、しないかの間にスーッと息を引き取られた。
つまり、死出の最後の挨拶を受け取ったのである。
家族でもない、ましてや旧知の友人でもない、
そんなYさんに、病人は最期の言葉を託されたのだ。

行きがかり上、亡骸とも同じ屋根の下でくらし、葬儀全てをみとり、
まさしく家族同然(以上かも)の10日間を過ごす結果となった。

よほど深い縁があったのか、Yさんの人柄に安心されたことなのかわからないが、
自分に置き換え考えると、人生観に深く影響するだろうことを強く感じた。

僧籍を持つYさんゆえか、天性のおおらかさからか、
消化して受け止めてしまっていることに「さもありなん」「あ!やっぱり」の言葉がフッと頭に浮んだのは、当然の感想だと思う。

大いなる人生の伏線に、無駄はないことを思うと、
今はわからずとも、将来の役回りがあるのだろうなあと
マジマジとお顔を覗き込んでしまう、Booであった。

もうそろそろ・・・考えようよ

能登地震、 時間が経てば経つほど、被害のひどさが伝わってくる。
地震すごさを視覚で見せるときのとき、決まって映すのが、墓石や寺院の山門。
墓石の画は、お決まりになっているのか、連想しやすいのか・・・
それほど、地震にもろいと報道側も見る側も予測(納得)しやすいということだろうか。

地震が起きるたび、「石塔や灯籠の下敷きになって…」
という、圧死の記事が目に入る。
以前に千葉のお寺で住職婦人が、犠牲になられたことがあった。

ちょうど僕の設計で、巨大なカロートをもつ墓所工事をいていた頃のこと
自分のことのように衝撃を受けた記憶がある。
墓と燈篭の違いはあるにせよ、石材を積み重ねていると言うことでは一緒であるのだから。

今回の地震でもお亡くなりになった1名の方は、倒れた石灯籠による圧死である。
心から冥福をお祈り申し上げたい。

でも、この種の事故は、毎回起きる。

毎回だよ。なぜ? 憤りを感じる。
全くと言ってよいくらい、教訓が次に生きていない。

轍を思いっきり踏み続けている。

何トンもある石を、ただ重ねただけの構造だもの。
簡単に倒れる。あたりまえだよ。

地震があれば崩れるのはわかるはず。

そろそろ、地震列島の上に住んでいることを意識してもいいんじゃあないの。

地震のときは、「モニュメントや灯籠には近づくな」です。

おひさしぶり(^^

昼過ぎ、

パソコンに向かっていると、何となく背後に視線を感じる。

店は混んでいるほどでもなかったので、
せめてこの時間にというあせって、カタカタいじっていたのだ。

どうも、妙に背中がこそばゆい。

はっ!と振り返る。
そこに
ニコニコとして、婦人が立って眺めていた。

長らくお会いしていなかったが…当時も3~4回お会いした程度だったと思う。
けれど
瞬く間に記憶は遡った。

指折り数えると…
10数年ぶりに訪ねてくださったのだ。

「覚えてる?」。

何をおっしゃる、うさぎさん…ではなく。M子さん。
よ~~く覚えてますよ。
お客様の顔は、まず忘れないもん。
(ちょっと陰りが見えてきましたが…)

こういう再開は、本当に何よりも嬉しい。
「ずーと仏壇の前で祈ってんのよ」

どうしよう。
Mさんのこと、ぼくは一度も仏壇の前で祈ったことないよ。

でもね、
気付かされてはいるんだ。

今の仕事は、
僕ぐらいの器量でできる仕事じゃあないって事くらいは心得ている。
なのに、今まで続けていられる。

耳には聞こえてこないけど、
目にも見えてこないけど、

見えない祈りが集まって、
聞こえない声が集まって、
ずーと支えてくれているんだってこと。

だから、人を好きになるしかない。
僕にできることは、それしかない。
返せることは、それしかないって。

商売?
考えたことないよ。