三社祭です。
来週17日から19日(神輿が出るのは18.19日)には浅草は祭り一色になって熱気ムンムンです。まして今年は・・・
そう!令和元年の三社祭。
∴「新帝御即位」の文字が。
祭り提灯にも 。
これは・・・記念になくなっちゃうかな。
ちょっとした気づきを書きました
三社祭です。
来週17日から19日(神輿が出るのは18.19日)には浅草は祭り一色になって熱気ムンムンです。まして今年は・・・
そう!令和元年の三社祭。
∴「新帝御即位」の文字が。
祭り提灯にも 。
これは・・・記念になくなっちゃうかな。
あんまり迫力があって美しい空に朝から思わず掃除の手を止めて写してしまった。
今日から11月。霜月。お酉様。11月1日はわんわんわんと1がゴロがよく並ぶので犬の日(ちなみに猫は2月22日)。酉の市は寒いと言うのが定説だが確かに寒い。
蒼いキャンバスに描かれる点描の雲は高度が低いのだろうかサーーッと流れては形を変えていく。つい面白がって目で追っていってしまう。
当店の商店会の雷門盆踊りと灯篭祭りが始まりました。
今日は小さい灯篭をお店前の通りに飾りました。雰囲気満点です。
秋田湯沢市からの出展です。
明日の夕方は並木通りで盆踊りです。
浅草の夏のフィナーレです。
TONのルーチンとして月初めは、浅草寺のお掃除会から始まる。
何千回通ったか知れない境内だけれど、来るごとに新しい発見がある。実に楽しい。掃除はそれぞれどこを掃除してもよいのだが、TONはまずこの母子像とも言える母子地蔵をお参りかたがた掃き清めさせてもらう。今月はお祭りでもあったのだろうか白ゆりと真新しいねんねこが掛けられていてほっとさせられる。
なにも身内に満州からの引揚者がいるわけではないが、引揚げ者の惨禍は日本人として記憶にとどめつつ後世に残すべきことと思いが強いからなのかもしれない。
ここもこんなに整備される前から好きな空間なのだが、お寺で手を入れられて開放的な聖域になってますます好きになった。改めてそのお顔を拝顔してみると実に生きている。最近の工場生産で刻まれるお地蔵さまとは、まったく違い、血が流れる表情がなんともホッとする。江戸庶民の発願で彫られた仏様なのだろうが手に触れられるのもいつまでだろうかと頭のどこかによぎったTONなのだ。
銀杏の戦災木にもまた青葉が吹き出してきていた。
朝は調子が良くて南千住まで足を伸ばしたTONであります。朝の6時はまだ寒い。けど東京のど真ん中にいても夜明け前後の待機は気持ちがいい。
智恵子抄の千恵子ではないが、東京には空がないとTONも思っていた。しかし安達太良山ほどではないがそれなりにうんと待機を吸い込んでみれば、気持ちも良くなる。ただ、通勤の人々が闊歩し始める頃には、どことなく空は淀み出す。だから極力、お日様が顔を出すか出さぬか頃に願わくば外に出ることが日課なのだ。
毎回毎回、同じ光景なのだが、何かしら新しいものに出くわすもので、全てが流転している世の中にあって、昨日と今日は全く同じ、なんて余りにも傲慢な言葉だと思い知らされるのだ。
浅草の川向こうは今はうんこビルがあたり、区役所があったりと変貌しているが、明治の御代になるまでは、細川藩の下屋敷、そこに隣接して水戸藩の下屋敷があった。今はソメイヨシノを始め様々な種類の桜が競い合っている庭園・・・水戸様の日本庭園跡が公園となり目を楽しませる。以前から建つ石碑。ちょうど良い機会と寄り道してみる。なんと藤田東湖の終焉の地であるその碑であることを知った。ほ~である。
空っぽの腹の虫がグ~となる。
明示天皇のレガッタご観覧の地には顕彰の牌が建つ。レガッタの練習はもう始まっていた。
水神橋まで走ると花桃だろうか、レンゲと二重奏で出迎えてくれた。
花に見とれて汐入大橋まで足を伸ばしてしまった。
御徒町に用を足しての帰り道。必ず通る裏道には寺の軒が連なる。そんな風景を見ながらのんびり帰るのがいつものこと。国際通りを越えると都会の真ん中にありながら異風の建物に出くわす。始め見たときには古臭いお堂。よく生きながらえたものと感心したものだが、よく見れば歌舞伎役者たちの堂々たる名前の玉垣に囲まれ、その聖域が歌舞伎役者の庇護にあったことを物語るには十分過ぎる風情を残す。
宗吾殿といえば、千葉県にある宗吾霊堂を思い出されるが、江戸期にこの地にあった堀田家屋敷の跡地であることの縁(よすが)なのだ。
宗吾殿は、江戸時代の義民で知られる下総国佐倉公津村の農民惣五郎(宗吾)を供養する堂です。惣五郎は佐倉の農民(一説に名主)で、重税に苦しむ農民のために直訴を図り処刑されたものの、当時の佐倉藩主であった歴代の堀田家は惣五郎の霊を絶えず弔い、享和五年(1803)に宮川藩堀田家の屋敷地であった当地に建てられた霊堂が現存しているといいます。
昨日もしばらく通らなかったこの道を急ぎながらも風景を期待した。
大通りを渡り一区画目の角に・・・ない。
なにやらマンション建築中の覆いで囲まれていてお堂も庫裏も何もかもなくなっていた。
我が目を疑い、「あれ?道を間違えたかな」そんな思いを持ち周りをキョロキョロと眺めなおすが、どう考えてもここだ。「文化財にしても良いようなものなのになくすわけないよなぁ~」独り言を言いながらしかたなく店に帰った。
調べてみた。
間違いなかった。
けど・・・・
ストリートビューを開けてみると、確かにあった。2017.9。去年の9月には確かにあった。が、今はない。
古い話だが、2011年10月にたまたまここの持ち主にお会いしたことがあった。門も塀も3.11の地震の影響で崩れてしまい、途方にくれていると話してくださった。修理費を捻出するのもたいへんだとつぶやいていた。
これだけのものが個人で管理していたのかと初めて知ったわけで、尚更どうしているかと心にかけることが多くなった。
過去をさかのぼってみると、2011年の日記も残していた。
江戸の名残がまたひとつ消えた。
浅草にはクリスマスがない。
浅草に来たばかりのころは何の不思議さもなく受け入れていたのだけれど、年を重ねるごとにあれ?と思ってみたりもする。
もう正月飾りが仲見世を覆っている。
一日は浅草寺の掃除から始まる。
朝のお経の時間に合わせて堂内に入りお勤めをし、30分ほど夢心地の時間をこなして境内に出て掃き清める。
二尊仏も黄色いシーツを敷いている。
ちばてつやの母子地蔵も掃き清めました。
終われば車座、いやいや座りはしないのだから円陣を組んで、いつも近況報告をしあう。
みんなTONより先輩ばかりだから自分にとっては貴重な時間である。
子供が未就学の頃からお世話になっているのだから、考えればもう30年近くになることに気がついた。子供が着なくなったダブダブのウインドブレーカーを引っ掛けてきたものだから、ふとそんな気になったのだと思う。
こんなときからだったからね・・・
以前のルーチンはこのあとは靖国神社に昇殿参拝に行き、遊就館に遊ぶというのが常道だったのだが、仕事が重なることが多くこの一年抜け出すこともままならなくなってしまっていて、どこか消化不良を起こしている。
今日は今日で御徒町にある法務局に足を伸ばす羽目になった。
転んでもただでは起きないTONである。
大通りは走らず脇道脇道でくねくね走っているとご褒美が頂けることが多い。
で、今日のご褒美は、こちらに出会えたこと。
東京は特に台東区は町人の街でもあるけれど江戸時代の武家屋敷が多く、ということはお国の神様仏様を勧請して屋敷内に祀っていたわけで、明治以降武家屋敷は消滅しても、名残を残していった。
それがこうした神社仏閣に縁を持てるわけである。
して、これにもありつけた・・・
今日浅草はほおずき市です。
朝早くから浅草寺境内ではほおずきの搬入で忙しそうでした。
でも、ほおずき市の方が有名になってしまいましたが、あくまでも大切なのは、明日10日の観音様とのご縁日。四万六千日のほうです。
一日のお参りで4万6千日お参りしたのと同じ功徳があるというのですから。
46000日分お参りしたことと同じって、いったい何年分って計算すると・・・
126年分余り少々。
って一生分ってこと!・・・なんて打算しないでね。
私の分だけではないのですから。
回向っていいますよね。
ご先祖に回向させていただく。
なぜなら自分の存在は先祖なしにはありえないのですから。
いったいどれくらいのご先祖の影響権にあると思いますか。
ちょっと計算してみましょうか。
私の親は2人います。
そのまた親(祖父母)は母方に2人、父方に2人=4人
そのまた親(曾祖父母)は、2×2×2=8人
そのまた親は、2×2×2×2=16人
そのまた親は、2の5乗=32人
そのまた親は、2の6乗=64人
・・・・・・・
10代遡れば2の10乗=1024人
まぁ戦国時代前くらいまで責任もつとしたら2の20乗くらいで600年くらいかな。
2097150人となるわけで・・・ひとりあたり0.02日分。
ありゃ。僕一人じゃとても無理。
だからこそ少しでもってね。気持ちの問題です。
しかし・・・観音様も太っ腹だ~。
震災有り、空襲あり、帝都東京はとにかく歴史的建造物がことごとく灰塵に帰した町だ。
それだけに町中を歩いていてふと出会う過去の記憶の断片には感慨のものがある。
小島町に用事で出かけ、帰る足がふと止まった。
お堂の形を持つちょっとした祈りの場が、地価の高いこの地にどんと構えている。
しかも車一台止められるであろうスペースを割いて。
古老と話すと高度経済成長期以前ですら街の様相は現在と随分違うように聞いている。浅草寺裏にはまだ田園が広がっていたとも聞く。
まだ、農耕が牛馬の力を借りて行っていた頃の時代、このあたりはどうであったのだろうか。
なんだか楽しくなってくる。
それほど古いものではないように推察するが、馬頭観音を主にいくつもの石像(花崗岩を荒彫り)が群れている。
TONの生まれた街にもよく似た景色があった。
そこで育ったせいか、戦後のドヤ街を思わせるゴミゴミさがどこか居心地が良かった。
世紀をまたぐ付近から街は急速に近代化していってしまった。
どこかよそよそしさが漂う均質な風景に衣替えしていってしまった。
浅草にはまだその縁(よすが)が残像のように残る。
都市計画や防災計画上は耐えられないことは十二分理解している。
けど・・・
そこに惹きつけられるのは、人の曖昧さ、矛盾性が形を顕しているからなのか・・・
一株から天を覆う藤棚となる。
もうこんな風景も見えなくなるのだろうか。