プチ周遊

急に用事が入り厚木まで足を伸ばした。

千歳船橋までは、時々出かけるが、
さすが厚木までとなると意外に遠く感じる。

町田を過ぎる頃には車窓に釘付けとなっていた。
宅地が恐ろしいくらい多くなった・・・

厚木の仕事は早々に切り上げたので、あとは戻るだけ。
どうせ帰るのは同じなのだからと
別ルートで帰ることにした。
海老名から相模鉄道に乗り換え横浜へ。

相鉄は相模川の川砂を運ぶ為に敷かれた鉄道。
僕の子供の頃は、砂利電の別称がまだまだ大人たちの間では通用した。
相鉄の海老名駅を見てまず変貌ぶりに腰を抜かした。

田んぼの中の田舎駅のイメージはとうに過去のものだった。
どこかのテーマパークに迷い込んだかと思うほどの再開発ぶりに、
人口の激増ゆえと予想された。
7000系と8000系が仲良く並んでいた。
後発だったが8000系の先頭車輌に陣取る。
新車両と思っていたが、もう10000系代までできていたことを道々知ることになる。

そして横浜。
昼を過ぎたので、駅弁を買うことに。
もちろんシューマイ弁当である。

あとで気付いたが、弁当の質の変貌ぶりにわが目を疑った。

日付を見たら本日の9時製作になっているのだから古いわけではない。
なのにシュウマイがこわばっている。
冷えても美味しいはずのご飯がすこぶる硬い。
惣菜が簡略。肝心の顔つき瓢箪の醤油入れが何の変哲もないビニール袋に。
全体的に冷凍の解凍物ではないかというのが印象だった。

どこでも入手できるようになったと言うことは、こんなものかな。
赤福の例もあったけれど、
過ぎたるは・・・の故事にならないようにしてもらいたい。
せめてお膝元の横浜ではできたてを出してもよいのではないのだろうか・・・
食い物のことで男子が細かいことを・・・という気持ちもあるが
浜っ子は、シュウマイ弁当に思い入れがあるのさ。
食い物の恨みは恐ろしいよ。

また先頭車両に陣取り浅草まで。
川崎を過ぎて、だいぶ高架化工事が進んでいた。
建築限界ぎりぎりまで張り出している軒先を、
疾風の如き走り去る赤い弾丸の京浜急行のイメージも、
高架化で一新してきているが、
それでも120kmでの営業速度は気持ちがいい。

新人の初乗務だったのか、運転台に3人乗務の様子を飽きずに見ながら
あっという間に品川に着いた。

後は地下鉄。寝て浅草まで。

秩父行きが急きょ、プチ周遊となった次第。

できました!!

紫檀の梵字ネックレスです。

梵字は八体仏を12㎜の素挽きの紫檀に彫りこみました。
なかなかの迫力に仕上がりました。

雨・雨・雨

動けるときはこのときしかないと、
今月の予定表に書き込んで、
自転車の整備を終わらせ、
持ち物の準備をして、
宿の空き状況を調べたり、
コースをもいちど確認したりと準備完了。

月末に秩父行きの予定を立てた。

・・・というのに・・・

なんと・・・
台風が近づいてきてしまっている。

明日から雨の予報だって。
暗雲がたちこめてきた。

僕の自転車、雨はダメなのです。
なんでまたこんなときに来るかなあ・・・

あ!そうか・・・

雨男だったもんナア・・・
忘れてた。

(目黒の若旦、那慰めていただいてありがとう)

初めてのマイ便せん


頂いてしまった。

「お仕事よくできました」かどうかは解らないけれど、
Sさんから。お仕事の完遂祝い?

もっと筆まめになりなさいとの象徴かもしれない。

手漉き和紙。

もったいなくて使えない。
書くのが好きな僕としては願ってもないご褒美だ。

当のSさんは来月のスリランカ行きのための
予防接種で保菌作業中。疲れていらっしゃるだろうに、すんません。

お前は生きているというのは名ばかりであって・・・

腕輪の直しが14~5本。
昼食をとっている最中にも依頼が入る。

この季節、夏場を前にして、通しゴムが気になる時期ではある。

預かった腕輪を見ると本当に持ち主の分身であることがよくわかる。

完璧に切れてしまってからお持ちになる方もいらっしゃるし、
ぎりぎりまで使い込まれて、3~4本通しているはずのシリコンゴムが
一本の・・・(その1本も実は無数に細かい糸が束になっている)さらに細かい構成糸の数本をもって、
なんとかかろうじて繋がっているもの。

蚕が吐き出した糸が絡んでいるような姿になるまで使い込んでいらっしゃる姿。

僕の手に乗せたとたん、はらはらと切れていく腕輪。
ちょっとした感動を密かにする。

糸の体裁は守りながらも、じつはゴムの性質を全く失っているもの。
そんな姿を見るときは、ちょっとした感傷にふけるのだ。

気付け!

年間3万人超の命が自らの意思で冥界に旅たつという。
ぼくも22歳のとき親友が旅立った。

どれだけぼく自身の人生観に影響を与えたか
当の彼でさえきっと思いもしなかっただろう。

人生を否定するということは、
数え切れない人の愛を自らの手で無に葬り去ることだ。

親の愛、祖父母の愛、祖祖父母の愛・・・
兄弟の愛、夫婦の愛、子供の愛、友人の愛、
ペットの愛、自然からの愛、
そして自分ひとりが生まれてくるための過去一切の血縁の愛を
一切を否定することなんだ。

その瞬間には、自分の世界しか目に入らなくなる。
自我の・・・
極度なまでの孤立感の中に・・・
視野が狭くなる。

そんなときは、
手のひらを見て欲しい。

そこに
大宇宙が広がっていることに

気付いて欲しい。

自分の意思とは関係なく、そこに息づく生命を。

自分ひとりが撃つうに孤立しているんじゃあないんだと言うことを。
関わりあって、存在していることを。

1人が地上からいなくなったって何も起きなんだ・・・なんてことは
ありえないのだということを。

自分1人がいなくなることは、
大宇宙が悲しむことなんだということを。

大切な私なのだと、
気づいて欲しい。