実に今日は・・・

忙しかった。
否。

忙しいing。
なのである。

結局、お昼は4時間ずれてしまった。
もうあきらめてもいい時間だけれど。
否。

諦められない。
意地でも食べてやる。

で、たちそばをかっ込んできた。
カレーうどんにしようかしらと、一瞬、脳裏をよぎったけれど、

ねずみは、食べたくないと、
心がブレーキを踏むことになり、
今日はおとなしく、好物のそばのみとすることにした。

春遠からじ…まだ?

今度の18日の日曜日は、浅草観音示現会。
そう。
本来この日が三社祭りであるべきの日である。

何故なら、628年大川(隅田川)から、1寸8分の金色に輝く観音像が地元の漁師、檜前浜成、竹成兄弟によって川に打った網にかかった(示現)日だからである。

予報をみると、ちょうどその18日、示現会の日が桜の開花予想と重なる。
桜のもとで、観音様の示現を慶ぶなんて、めでたいなあ。

けれど、今日は寒ーーーい。

ぼくが念珠堂をはじめた頃

僕が仏具店のまね事をはじめたころ、
まだ世の中は、好景気の真っ只中だった。

仏壇は置いておけば飛ぶように売れた。という時代は
とっくに過ぎてはいたようだが、

まだ、バブルの余波を受けて、国中がまだまだ乱舞し
業界もまだまだ鼻息の荒い時代だったようだ。

ただ、土地神話は気をつけなさい、
という言葉もちらりほらりと聞こえてきてはいた。

当時の電話帳を見れば、
1ページ広告1/2ページ広告などこの業界の老舗たちが
ページを飾って、如実に景気を物語っていた。

僕はといえば、
資本も売り先もない中で、船出してしまったわけで、
広告を打つにも、チラシ1枚作るにも元手がない。
そんな、帆一枚で荒海を越えるが如く、無謀な舵取りだった。

ただ、唯一の財産は、後先考えない若さがあった。
情熱と、念珠つくりの技術だけは蓄積していた。
(もちろん技術は見よう見まねで盗んだのである)
そして、とにかく人が好きだった。

10坪にも満たない店には、仏壇を置くスペースなんて
猫の額どころか、ねずみの額ほどしかなかった。

でも、そうした環境が幸いした。
当時、念珠や、香は、他店では、
仏具商として体裁をたもてばよい商材だった。
店の隅に申しわけ程度のつけたし商材であり、
1円単位の利益なんて、必要のない利益だった。

どーんと仏壇で利益を確保すればよかったのだから
3割4割引きで売られる店もあった。

そうした脇商品を、あえてメイン商材としてスポットを当てた。
正確には、「当てざるを得なかった」と言うのが本音でもあった。

もし、それ相応の店舗広さと資金があったとしたら、
「念珠堂」という名前すらなかったかも知れない。

他を見渡してみても、そんな店は、当時一軒もなかったと記憶する。

高額な仏壇が飛ぶように売れるそんな時代に、
あえて、手間のかかる利益の薄い商材を、
メインに選ぶなんて、気が知れないというところだろ。

すぐに消えてなくなると思われていたかもしれない。

自分に恐怖感はなかったかといえば、うそになる。

けれど、それ以上に、「自分にはこれしかない」
切羽詰った、どん尻の開き直りがあったし、

若かりし頃、生死の境をうろついたとき、
生きた仏教には、逢えなかった苦い思いを
念珠という手ごろな法具に賭けてみたくなっていた。

今に至った。

「もうだめ」が幾度あったか知れない。
が、そのつど不思議な出逢いによって、必ず救われてきた。
筆舌に尽くせないと言う表現があるが、文字通りなのだ。

法具を意識させていただいてきたおかげだろうか。

さてさて、今日は、どんな出逢いがあるだろう。

今日もひとつ得した気分

最近、夜更かしが続く。
といっても、たかが知れてはいるけれど。

夕べは、パソコンに向かいながら、NHKアーカイブスを見ていた。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2006/h070311.html#02

ドキュメント人間列島「64歳の新人医師」という内容だった。
27年間の教師生活にピリオドを打ち、50を過ぎて、京大医学部を受験し、医師国家資格を8回チャレンジし、
見事合格する。
その64歳の研修医生活を追ったものだった。

84歳の天寿を全うするまで現役で頑張ったと言う。

見るつもりではなかったけど、その情熱に引き込まれ、
魅入ってしまって、仕事どころではなくなった。

学生時代の同級生との対談のシーンがあった。

かたや、老齢の押しも押されもしない病院長。はじめから医学の道を行った彼の友人であり、
かたや64歳の新米医師である。

全くの同い年ながら、容姿も体力も覇気も全く異なって見えた。
老いという時間を享受していく者と、
夢を実現していく情熱の時間の違いがそこにあるように見えた。

その格差に夢を持つことの大きさを如実に垣間見た。

ひとつ教えられた。
得した気分。

灯台下暗し

自転車で郵便局に行く途中
近くに発見。

元居酒屋の店内を所狭しとパーツで埋め尽くし
体を折り曲げて作業をしていた。

話しながらも、決して手は休めなかった。

去年の夏に開店したのだとか。
30年を越える趣味が高じて、はじめたのだそうだ。

昼間はバイク便を本業としているから、夕刻からの開店なんだとか。
なるほど!どうりで、開店中に出くわさなかったわけだ。

けっしてお世辞にも、「綺麗な」という形容詞は使えないとしても、

2階を埋め尽くす、フレームやパーツの数々には、

好きでなければ、集まらないだろうことが、
同じ好き者として、びんびんと伝わってくるのだ。

店主の情熱に、感じいることしきりだった。

消費者の立場に帰って、改めて教えられた。
我が店はどうだろうか・・・

心のトレース

ALS(筋萎縮性側索硬化症)
久しぶりに、テレビのドキュメントを介して目にした。
NHKの人間ドキュメントのなかで、
少年期に心を開かせてくれた友人に、
己が僅かな余命の間に逢いたいとして、探し出すノンフィクションであった。

自分がALSを始めて知ったのは、30年以上前のことではあるが、
当時は、名前すら知らなかった。
とにかく奇病としか告げられなかった。

次にその病と出会ったのは、
親しくしてくださった、お坊さんが寝たきりとなった。

頭の良い方であっただけに、
本人も、介護する側も口で言い表せない苦悩であったろう。
人生の理不尽さを、心底感じた記憶が今も残る。

科学の進歩著しい現代にあってもなお、
解明されない、病に苦しまねばならないのかと、
目頭を熱くした。

愛する人が、人が人として生きる最低のラインを下回ったとき
周りはやさしくなれるだろうか…。

いや、そうならなければならないのだろう。
そしてまた、知ったものは、
わが身に当てはめてトレースしていくことが必要なのだと思う。

3月10日に想うこと

3月になると決まって戦争の、というか、
空襲のことが頭から離れなくなる。

横浜市民でいたときは、
さほど気にも留めない話題であったのだが、

東京に、引越した初日に東京慰霊堂に出くわすほど、
過去、帝都と呼ばれていた、東京と言う町には、
爪あとが、ここそこに残っていた(る)。

横浜は、子供の頃、空襲で焼け落ちた焼け焦げたビルが、
馬車道から本町にかけて、かなりの数残っていた。

幼い頃の記憶だったからか、浜っ子には、
戦中の文化史財という意識が薄いためか、
かまわず真新しい町に生まれ変わってしまったために、
目に触れて残るものは、数少なくなったように感じる。

一方、東京においては、成人してからの記憶であり、
そしてまた、商売柄ということも一役買っているのかも知れない。

「慰霊堂」つまり「陸軍被服廠(ひふくしょう)跡」は、
当時とにかく、恐ろしかった。

訪れたのが、夕刻と言うこともあったが、
何ともいえない雰囲気を漂わせていた。

鈍感な僕でも、これくらに霊気は感じる。
そんな状況だった。

政教分離とかいうことで、東京都が直接手を出せない。
ゆえに、外郭団体をつくり、公園管理を依頼していた。
国の政策で亡くなっていった多くの命に対して、
なんともはがゆい「管理」をしていたのだ。

地元有志、仏教会が供養を続けていたが、
誰よりも一人の心ある方の頑張りによって、
供養が支えられていたことをある縁を通じて知った。

もう四半世紀が経ってしまった。

信じられないほど整備され、
何十万柱の無縁仏が眠っているなんて、
これっぽっちも感じない、
明るい公園内にわずかながらホッとするのだ。

4月15は横浜空襲。
http://www.history.independence.co.jp/ww2/index.html

海は広いな・・・

忙しい時間を割きに割いて、国際展示場までアシを伸ばす。
「japan shop」最終日に何とか滑り込んだ。
本当に久しぶりだった。

でもどうーーしても、

確認しておかないとならないことがあり、
出かけたが、

行くと連鎖反応的に次から次に
課題が生まれてくる。

問題解決に行ったのか、
課題をもらいに行ったのか、わからなくなった。

昼飯はまず取らない。
一緒に出かけたものならわかるけれど
よほど忍耐強いか、
好みが全くもって同じかでもない限り

へとへとに疲れ果て、文句の固まりになって帰るのが落ち
というような、廻り方をする。

要するに貧乏性なのかもしれない。
しかし、向学心に燃えているんだ、と言って欲しいと
本人は希望している。

まあとにかく、本日も独楽鼠のように、
くるくる廻った廻った。
目も回った。

そんなときブースのはずれからみえる東京湾は
生きた海とは思えない鉛色であっても、

ホッとする景色なのだ。

百花繚乱

椿、たぶん院宣と思うけれど、
取引先の職人さんの玄関先で見つけた。
ブログを書くようになってから、
小さな変化にも目が行くようになった。

15日前後には桜もほころぶとか聞くし…
椿も梅も桜も、いっぺんに咲き競い合うのだろうか。

極楽結び

S女史との笑い話から、
本気が転げ落ちた…というのか、

ヒントが、それこそポンと生まれ出た。

それが、数日前の話。

実際に編みこみをやってみると、
紐が細すぎて、思うように形にならない。

ようやく、見れる形が整った。

阿弥陀経の一節から生まれたのだから、
「極楽結び」とでも呼ぼうか。