ちょっと夏向きのはなし。

にわかに商店会を作ろうという話が持ち上がり、
通りの名を決定する為に、雷門地域の歴史を再び調べ始めた。
もともと歴史と地図が好きで、浅草の歴史も何度読み返したか知れない。

そんな中、地元の郷土史家の話から、観音像を自宅に奉った、
つまり(三社の一宮にあたる)土師中知の居がここ雷門に明治初期まであったことを教えられた。

ついでに言えば、観音像を宮戸川つまり隅田川から引き揚げた檜前浜成、竹成の兄弟はそれぞれ、花川戸と山宿に住んでいたと聞いた。

唐突な話だったので、腰を抜かすほど驚いた。
神仏分離が行われるまで、土師の末裔が浅草寺の供物を供えていたということも知った。邸宅には阿弥陀仏を奉じ、参る人も多かったようだということも知った。

そう言えば・・・と、とってつけたような話だが、
わが店には、俗にいう霊能者と言う人、今風にはヒーラーと呼ばれる方々が
以前からお客様としてすこぶる多い。
いらっしゃると「ここは気がいいね」と必ずといってよいほどお褒めをいただく。
まあ自分もここにいると気分がよくなるから・・・くらいに考えていた。

その中の何人かの人たちにちょっとちょっとと声をかけられ、
何でしょうか?と問うと、
「装束を着た方が店内にいらっしゃるね」と、
こともなげに見えるかのように(彼らには見えているのでありましょう)耳打ちされるのだ。そんなこんなで毎日、閼伽(浄水)と線香は欠かしたことがないのだが。

そうか・・・
浅草寺への巡礼者かとも思っていたのけれど、
この話を聞いて、何となく合点がいった。

アイガー北壁カレー

テレビを見ていたらダムファンと言う人種がいることを知った。
造っていた側からすると、何がいいんだとまではしらけていないが、いろんな趣味があるものだと驚くばかり。

で、そのダムファンの食堂主が作ったファンならではのメニュー。

じゃあ僕も作らなくちゃ。
て言うことでこうなりました。

アーチ式ダムカレー。

カレーが濃くて放流はできなかった。

他にも重力式、ロックフィル作り出すとなかなか面白い。

じゃあぼくのオリジナルはこれだ。

スカイツリーカレー・・・

え!アイガー北壁だって?
なるほど・・・

浅草のそら

伸びやかに空のキャンバスに雲の筋が
秋の近づきを装っているみたいだ。


相変わらず暑いけれど風は心地よい。

せみ時雨

子供時代の夏は、とにかく蝉採りを筆頭に、ちょうちょ採り、トンボ採りに走り回っていた。しかし採った後ちゃんと標本にして夏休みに宿題として提出した記憶は一度しか覚えていない。

じゃあ、あとはどうしたのだろう。
懸命に思い出そうとしても記憶にない。
それほど、虫の命を軽く考えていたのだろう。

ある日、母にこっぴどく叱られた。
「あんたがこうされたらどうするの」
単純な言葉だったが、
まあいやだろうな・・・

カゴに閉じ込められたまま餌も与えられないでミイラになって捨てられちゃうのだから。
人間ならたいへんな拷問だ。
実際はそんなことがあるわけはないのだけれど
無視の気持ちがトンと子供心に落ちたのだ。

恐怖心を煽りながらも結果的には
「悪いことをすれば自分に帰る」と深層意識に刷り込んでくれる。
単純ながらも、道徳律に反すること、良心に恥じること、悪いことをすると呵責を覚えるようになる。

せみ時雨を聞くと
ふと、そんなことを思い出す。

いよいよこの季節

ダンダダンダダン・ダンダダンダダン・・・♪
と狂乱に満ちた熱気に包まれる一日が過ぎると、浅草はもう秋。
浅草サンバカーニバル

故伴淳三郎のアイデアで始まった浅草サンバももう28歳。
初めはいつまで続くやらと思っていたけれど、
なんのなんの、今年はますます盛んになった。

ブラジル移民100周年を向かえ
さらに盛り上がるだろう。

以前コーヒーの勉強をした際に
何気なく飲んでいるコーヒー豆ひとつに、
いかに移民した日本人の苦労の土台があって今があるかを知った。
リオのカーニバルにも「MATSURI」として故郷への思いを残してもいるという。

サンバを見る目が多少変化した。