とうとう。。。。

一年前もこの時間。

パートさんたちが休憩を取り終わり、TONが最後に昼食をとっていた。
狭い部屋に弁当に口をつけた。二口、三口。

「ユッサユッサ・・・・」

あれ。地震。

つい先日も揺れたばかりだし、「またか」というのが正直な気持ち。
30秒くらい揺れたのだろうか、ジャブのような揺れはとどまるどころか、方向を変えて揺れだした。

「これは違うぞ」と思って、小部屋を飛び出した。

出たとたんに今までにない横揺れが襲ってきた。

縦長のショーケースは片足立ちしながら揺れている。
商品はそのたびに右に行ったり左に行ったり。。。。

香炉のいくつかが横っ飛びして足元に落ちた。

「ガチャン」

お客様を非難させなければと見るとパートの子と抱き合って出口付近で固まっている。

「外には出るな」叫んだように思う。

その後も仏像は飛び跳ね、仏具は転がり、念珠はフックからはずれ。。。

あれから一年か。

今のところ無事。

忘れようにも忘れられるものか。

忘れないためにも

被災地東北出身の元米米クラブの石井竜也は何もできない自分に対して赦せず悩んだ末に、この歌に行き着いたのだという。

自分のできることで支援していく。谷村新司のアドバイスによるものだった。
アーティストはアートによって勇気付ける。

僕らは何ができるか。

競争である。

愛する競争なのだ。

そんな気がする。

あれから・・・・

震災直後の3月17日の写真です。

被災地にローソクを送ろうかどうか迷っていた時の心境で写した一枚でした。
手元にあったローソクが被災地の灯りになればと思って準備していた矢先、ローソクは被災地には送らないほうがよいとテレビやラジオで注意事項として流れ、出鼻をくじかれた形でいました。

今考えれば送ってしまえばよかったのです。

この灯りひとつでどれだけ勇気付けることができたかもしれない・・・・

店もお客様が全く来ない毎日でした。

あれからもう一年です。

最近、義援金の募金は終了して下さいとある公的機関から連絡が入りました。
震災以降お店に置いている義援金の募金箱は概ね毎月3~4万を集めています。

途中義援金の配布の不透明さがマスコミで流れたりしたり、街頭募金の声も聞かなくなり、義援金の集まりも悪いと言われ出したのをも横目に見ながら、お店の募金箱はコンスタントに善意が集まっていました。

が、突然の中止の連絡です。

釈然としないTONは電話で確認しました。
だってこれからが、復興の正念場でしょう。

電話口の担当の方いわく、「念珠堂さんの募金はありがたいと思います。が、他のところに置いている募金箱にはほとんど集まらない10円20円なんていうのもあります」
のだそうです。

しかも、中央募金会に送金するときにかかる銀行振り込み手数料は来月から有料になってしまうので・・・

ということなのだそうです。

そんな馬鹿な。。。。

5年や10年で終るほど甘くないよ。
被災地に行かしてもらった時の正直な気持ちです。

長ーーい支援が必要だと言うのに。

熱しやすいが醒めるのも早い?

何か、どこか、おかしいよ。

いよいよ3月

寒い寒い2月も終わって、ようやく3月。

昨日までとは異なっていますようにと窓を開けてみた。
晴れ。じゃっかん暖かい。
今日は頑張れそう。。。。

小売業は、実に天候に左右される。

中には天候の悪い日だから来ましたという、通なお客さまもいらっしゃる。
だれでしょう・・・・・あなたです。

けれど大方のお客様の足は、天候、気温、にほぼ左右されてしまう。

あと、風、催事や風評、店主の心持、内輪の心のベクトルなどなど影響の種は尽きない。

心理学を毎日ただで学んでいるのだ。

小売業はこれだからやめられないのだろう。

経典って

携帯用の般若心経の教本とレコーダーの前に小学生の子供を連れた母親が商品を見ていた。

レコーダーには般若心経の読経が録音されている。

子供「お母さんおもしろいよ」

母親「うち死んでいる人いないから!」

終了!

であった。
子供の興味もその一言で切れてしまった。

「これはね、「つまらないことには気にするな」って言っているんだよ」
って、ちょっと要旨を話してあげたら、子供の好奇心はどんどん膨らんでいくだろうに。

子供が将来、人生の山坂で悩んだとき「お母さんこんなこと言っていたな」となるかもしれないじゃない・・・

教育の機会をひとつなくしたな。と思った。

TONは二十歳を過ぎた頃、一人の親友をなくした。

同じ趣味(引きずり込んだのだが)の自転車で木曾を走り、伊勢を走り、同じ汗を流し、人生を語り、悩みを話しながらの友人関係を続けていた。よき相棒だった。

ある日仕事中に彼の父親から電話が入った。
豊が死んじゃったよと電話口の向うで嗚咽していた。

山岳部出身の健康もりもりだった奴が・・・

「首をつった」
彼の父親の言葉の後に続ける言葉は自分にはみつからなかった。

それまでも悩み多きTONの人生観だったけどこの瞬間、音を立ててブッ潰れた。
(漫画の表現にショックを受けた時「ガーン」という表現方法をとるが、これは本当にそうなのだ。そうなる。本当にショックな時って「ぐわぁぁぁん」って頭の中で響くのだ。余談だが・・・)

「なるようにしかならないよね」
今日、目黒の若旦那(お客様です)と電話をしているときにふと出た言葉だった。

自分が友人の死後いろんな道を模索していた頃、般若心経に出会い、お経の内容に感動した。

お経は決して死んだ人に聞かせる言葉ではないと思った。事実そうだった。

生きている自分がどう生きるか、生きるべきか、のヒントを投げかけてくれているのが仏陀のことばなのだ。

あらためて当時のことを思い出させてもらった。

《無駄なように見えるのだけど》

お針箱の小さいものを想像して欲しい。
お針箱なんて言葉は死語かもしれないから、玉手箱みたいなもののほうが解りやすいだろうか、身と蓋都に分かれるケースだ。上からかぶせる箱のことを言いたいのだが・・・

その小さな玉手箱を真鍮の板二枚を使って上下の蓋部分と身を金づちで叩きながら成形する。出来上がったものは、蓋を身に乗せると音もなくゆっくりスーと滑るように落ちる。上等な桐ダンスの引き出しを閉める時のようななめらかさで。
これは0.1ミリの誤差でもスムーズに蓋は落ちない。

今時ならば、金型をつくりプレス機械であっという間に製作するだろうが・・・
一見すればどうということのない検便の容器のようなものなのに。

しかしこれは職人の技術をすたれさせないという僕らの仏具業界の使命のような仕事としてとらえられて作り続けられている。

最近、京都の職人と話す機会があった。
四分一という、銀と銅の合金を用いて密教の法具を製作する技術がある。
仕上がりにかける色合いがなんとも言えないもので好きな法具のひとつなのだ。

どんな小さなピンホールも一切許さない加工技術がないと理想の仕上げができなくなる。
とても難しい技術であることはわかっていたが、高額なものなので、数点しか店に在庫していなかった、というかできなかった。(^^;;

その最後の一点をはいてしまったので、再入荷しようと思ったのだが、帰ってきた答えは・・・

「もうできない」
だった。

「え!うそでしょ」
正直戸惑った。

「西海さんだめなんよ。高齢化でね・・・」

彼も素材がなければ何もできないわけで、それこそあがったりになってしまう。
必死になって素材を作れる職人を血眼になって捜している最中だった。

じつはこんなことが最近連続している。

無駄と思われることであっても、後世に残す技術と伝統を保持していかねばならない。

改めて足元に火がついていることに気付かされた。

お礼参り

http://http://ton.wp-x.jp/wp-content/uploads/image/ton.wp-x.jp/wp-content/uploads/imageblog/c/10234760.html

この日記を書いてからもう5年を越えている。

時の経つのは実に速いものだと改めて驚いている。

5年前の6月頃に引き受けた仕事は、観音菩薩の製作だった。

その観音菩薩のモチーフとなったのが、施主さんの実のお母さんをモデルの仕事だった。

ほぼ同年代の施主さんのお母さんであった。
昭和30年代前半当時の標準的な普段着であり、代表的な姿、割烹着(かっぽうぎ)を着て、おんぶ紐で子供を背負う「日本のお母さん」なのだった。

「このように彫ってください」と依頼され渡された写真を見るなに熱いものが止め処もなくこぼれた。
気づかれてはならじと苦慮した。
昨日のことのように思い出す。

そのお客様の再度のご依頼で、千手観音をご依頼いただいた。

今回も独特の仕様で彫ることはもちろんのことだった。
施主さん、つい最近大きな病気をしたのだという。
しかし、すれすれのところで死線を免れた。

俗に言えばあまりにもついていた。
しかし彼はそう考えなかった。
観音様の手が彼の手をひいてくれたのだろうと考えた。

そのお礼参りとして、お姿を彫刻するということ。

すこしでもそのお手伝いできることがとても嬉しい。

正月も終わり

琴の音も、この飾り付けも、特売も、昨日で終わりです。

以前とくらべたら、とっくに正月気分なんて無くなってしまっいたので、さばさばしたものですが、そう思う自分が少し寂しいですね。

どこへ行っても、つー


このために奈良に行きました。


とんぼ返りで京都泊。


京都は地蔵堂がこんな自然に溶け込んでいて羨ましい。
寺が生きている。


寺町を歩いていると鳩居堂に出会いました。


800年御遠忌で沸く知恩院を横に見て、っと。


松栄堂三年坂店。
さすが、老舗の建前を決して崩しませんね。ここは。

お付き合いのある会社に次々出会う。


清水寺の寺務所。期待していたものには出くわさなかったのだけれど、少々勉強になりました。


修学旅行客でごった返していて、人ごみの嫌いな(それで商売人かい)TONは、避けたい気持ちでいっぱいながら、リサーチがあったからそれもできず気持ちの中で大変でした。


で、最後はここでまた空。

結局、TONは仕事と切れない人間なんだね。
あ~疲れた。