プロ根性

ときどきフッと思い出すことがある。

高校時代、プロの仕事を教えてもらった。
当時公団のマンションに住んでいた。

当時でも安い賃料だったと思うが、その賃料に似合わぬほどに、メンテナンスは行き届いていて、しょっちゅう何らか修繕を行ってくれていた。
そうしたメンテナンスの一環で、年に一回だったかトイレ掃除に専門の業者が一部屋づつ巡回に来ていた。

ちょうど出そびれて家に居合わせていたぼくが、その作業員を中に招き入れる役となった。

「ピンポン♪」
と、チャイムが鳴って玄関の扉を開ける。
想像していたよりもはるかに高年齢の作業員が一人バケツとヘラらしきものとブラシを持ってちょこんと立っていた。

「ちょこん」の表現が相応の見るからに貧相な老人だった。
灰色の作業服もよれよれになって、だいぶ使い込んでいるだろうことは一目で理解した。

「こちらです」
と、中に招きいれた。
100世帯ちょっとのマンション。何度も何軒も作業して生きているのだろうから勝手知ったる・・・でさっさと掃除にかかった。

ぼくは、いつも逃げ回っていたから初めての作業。
たまたま目の当たりにしたわけで、手際のよさに口を挟む必要はなかった。

2~30分かかったろうか。

「終わりましたよ」

何をどうきれいにしたのかよくわからない。
「ありがとうございました」とは口に出しても、心底そうは思っていない。ぼく。

「ほんとうに綺麗なんですか」
何でああいう言葉が出たのか、出せたのか今となってはわからない。

けど、でちゃったんだもの・・・

老人は、「綺麗になりましたよ。ほら」
って、行ったが早いか、手が出るのが早いか、

すっ。

水洗便器に溜まっている水に手を入れて水をすくい、「あっ」と言う間もなく口に含んで飲んでしまった。

脇で見ていた母と顔を見合わせた。

「わたしの仕事ですからこんなこと当たり前なのよ」

といったような意味合いのことをさらっと述べて、
「さいなら」と帰っていった。

文字通りショックを受けた。

楽しげにトイレ掃除をしていた老作業員の姿は、いだに僕の心に宿っている。

ひっくり返してみると見えるものがある

昔、趣味で編集の仕事を手伝っていたことがある。
8ページのタブロイト紙のようなものだったがなかなか面白かった。
表紙をデザインしたりカットを書いたり絵の好きな僕にふさわしい仕事だった。

取材して文章を書かなくてはいけないはめになったときがあった。
作文のに苦手意識満タンな僕に何故?

何を書いたのかさっぱり覚えていないのだが、そのときの先輩のアドバイスは当時とても救いに満ちていたし新鮮に響いた。
「記事を書くときはね、表面だけを追ってちゃいけないんだよ。やぶにらみでもいいから、ちょっと斜に構えてみてごらん」

正直一本槍の自分の性格・・・
と聞こえはいいけれど、「それじゃあ物事の本質まで見られない、感じられないと言うことなんだよ」と言いたかったのだろう。
魅力のある記事は書けない。

若い頃から物事に詰まると、よく逆立ちをした。

当たり前のことだが、
天地がひっくり返って見える。
同じ場所、同じ人を相手にしていても、全く新鮮に見える。

新鮮だから、物事を慣習で考えなくなる。
常手を使わない。
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に・・・」と聖書に書いてあるけれど
違った環境を人工的に作る僕的な方法なのだ。

これはとても大事なことだった。

ひっくり返してみる。

案外「あたりまえ」と思われている、いや思い込んでいるものの中に見過ごしているヒントが煌いている。

目が飛び出すんじゃないかと思えるくらい長い時間ひっくり返ってみようか・・・

これも勉強

仕事の関連で高知に出かけた。
いくつか有名な観光地を歩かせてもらった。

自分なりに盗み取りたいものがあって参加したのだが収穫は充分だった。

和蝋燭と漉き和紙を全面に押し立てて町おこしを行なっている地域を見学した。
昭和53年に歴史的保存事業の国の補助事業指定を受けて、
ちょうど、中仙道の妻籠宿のように街道に沿った民家を昔の状態に戻している。
景観を保持すると言うのは大変な仕事だと思う。

そこに住むものは、街道に面した部分には、好きに手を加えることはできない。
漆喰壁の連続する通りは、歩いているだけでも癒されるし、先人の知恵に驚かされることもしばしばだった。

六代も続くと言う古い和蝋燭の工房を覗き、説明を聞きめったに見られない櫨(はぜ)の実から取り出した原蝋を触ってみたり、最近はめっきり減ってしまった京都の町屋に似たつくりの土間伝いに坪庭があり、生活の場がその後ろに控えている鰻の寝床ように奥行きのある空間を楽しんでみたりといろいろ見学させてもらった。

その店を出、バスの乗り場へ急いでいると、とある店の店主が観光客相手に熱心に説明をしていた。

バスの出発時間も迫っていたこともあり素通りしても良かったのだが、立ち話が耳に入ってしまった。

「ここの町は和蝋燭なんてやっていなかったんだよ・・・」
「新参のものが古くからいるような顔をして・・・」

「観光会社もいい加減なことを」と言わんばかりにわざわざ、自分でこさえたのだろう、ちらしに、しかも、ご丁寧にラインマーカーまで施して、熱心に説明していたのだ。

よほど後から移動してきた産業(というほどのことか)が脚光を浴びることが腹にすえているという体なのだった。

代々同地点に店はなかったとしても、地場の産業として根付いたものだとすれば、それもありかな・・・
さらに言えば、事実、結果として観光客が増え、その恩恵はその店とて何らかうけているのであろうに・・・

何も知らない観光客に向かって、「これは違う。間違っている。」と、一人ひとりに口説いている姿には、一観光客としてきた自分には、そりゃあんた内輪の話を外来者に愚痴言ってどうするのと、懇切にお話ししても良かったけど、しかたないよね。時間もなかったし・・・

実にいい勉強をさせてもらった気がした。

ったがで帰り

記憶蔵

頭の構造はなんとも不思議なものだ。
どういう構造になっているのか一度開けて見てみたいが、それだけはよしておこう。

何が不思議って、蓄積している記憶は、ちょっとしたことが原因で連鎖反応的に暴走することがある。暴走した行き先には出発点とは全く違う光景に突き当たることもしばしばなのだから。

友人のハイキング紀行に丹沢(入り口)のヤビツ峠の写真を見ていたら、急に思い出してしまった。

あの写真はどこ行ったっけなあ・・・
たった一枚の写真が脳裏に浮かんでしまうが、思い出せない。
思い出せないとついムキになってどうしても見たくなってしまう。
見たってどうって言うことはないとわかっていても。

ようやく画像ファイルの山の中に見つけ出すことができた。

ツーリングの写真。
しかも一人走りの多い僕にしては、クラブメンバーとの一こま。
丹沢湖の計画が持ち上がった頃で、開発の様相は写真のどこにも見当たらない純朴な風景。

すすきがお日様に透かされて黄金に輝いていたのが、印象的だった。

そのほかの光景は何も覚えていないのに、
僕の脳ミソの中には、ススキの穂だけがインデックスされてしまっている。

ヤビツとススキの穂がどうして繋がっていたのかわからないのだが・・・

体育の日

たーた、たーたたーー・・・♪
(東京オリンピックのファンファーレ)

そうか・・・

今日は「体育の日」の代休ね。

昭和39年10月10日おいら9歳でした。
もう46年前! のこと。
あぁ~~

白黒テレビで開会式を観ていた記憶があります。

小学校の教育の一環で「オリンピック」映画を観に行った記憶も。
記念日一つにも思い入れがあるものです。

おーっとっと・・・
「今日は代休じゃない!?」って。

「ハッピーマンデー制度」の適用により、10月の第2月曜日

だから今日が正真正銘の「体育の日」なんだ・・・
なんだか変なの・・・

子供の誕生日をこれからは、12月、3、5月、7月の第二月曜日とするなんて言ったら反乱がおきるよ・・・

成人の日といい・・・
体育の日といい・・・

記念日は記念日としてそっとしておいて欲しいね。
文化の破壊だよこれじゃ・・・

凝る

ほぼ毎日6キロ走っている。
もうすぐ丸2年になる。
上さんがあきれるほど続いている。

そうなのだ。
子供の頃から凝り出すと何処までも凝る。

車と昆虫が好きで、毎日図鑑を手放さなかった。
グリルの一部、ミラーの一部を見れば何年式の何という車とそらんじた。
はえに興味を示した時は、当時は犬の○ん○がそこいらじゅうに落ちていた時代であったのが幸いして、どんな種類のが集まるのか一日中観察していた。

そのうちお金に興味を示し、古銭マニアが複合した。そうなると読む本もかなりのものだと思うのだが読みこなしていた。、
駆けずり回って集めてはほくそ笑んでいる光景は何となく不気味さも感じる。今思えば。

思うところあって趣味には封印をしたが、自転車も7台持っていた。
毎週、遠出をしていた。峠が好きで富士山頂に担ぎ上げて山道を転がり落ちた。
毎日職場と自宅を28km通い続けた。思うところあってぱったりとストップした。
(最近封印は解いたが体がおぼつかなくなっているのが情けない)

そばを昼飯にすれば、何年も同じ店に通い盛りそばを食べ続ける。

やりだすと何処までも続ける。その自信はある。
それも自分の長所?であると思う。

けど、やめようと思えば、すっぱりやめられる。
やめるには止めるなりの大儀がなければならないのだけれど、心からそうだと理解すれば、次の日からさっぱりとやめられる。

それがいいのか悪いのか解らないけれど、割と感情をコントロールできる人間みたいだ。
人間関係でも同じことが言えるのだが。

この仕事も四半世紀。
職人家業と販売に足を突っ込んで、一向に飽きが来ない。
面白くてしかたがない。

勉強することは山ほどある。
技術的なこと、経営的なこと、学術的なこと
何より人的なことが大きい。

職人というのはややもするとお客様が見えなくなる。
勝手な想像をし、勝手なものを作り出す。
自分の世界に引き入れようとする。
それも一面必要な独りよがりの世界なのだと思う。
我の世界だと知っていて想像するならまだ救われる。

だから販売の現場、人と触れ合う場に絶対いなければいけないと思う。
しかも生半可にいるのでなく、人一倍積極的に。

人の喜怒哀楽の中に文化が込められていると信じるから。
ともに喜び、ともに怒し、とも泣き、笑う。
その感情の蓄積を創造の起爆剤にしたい。

そうした人の切れ目がないお店にいると
まだ暫くは、がんばれそうな気がしてくる。

ポチ

早朝に一仕事で雷門あたりにいると、実に多くの犬が通る。
モモちゃんというメスの柴犬がやたらと馴れてくれた。

子供の頃飼っていた愛犬がポチ。
柴犬の雑種で実にかわいいやつだった。

僕の言うことはまったく聞かなくて、しょっちゅう脱走してのけた。時々は夜中に鎖をどういう手段でかはずしてしまい、逃げ出して子供を作って帰って来ることも季節の変わり目になると行事となっていた。

そんなときは、明治生まれの大家のおばあちゃんに見つからないように、貰い手を夢中になって捜した記憶がある。
何故ならば子犬が見つかれば、近くの川に流されてしまうと恐れたからに他ならない。

ある日予想だにしていなかった事件が起きた。
ポチが大きなお腹を抱えて逃げ出し、近所の家畜に迷惑をかけてしまったのだった。
ついに彼女は悲しい運命を歩むことになってしまった。

冊処分が決まった時、飼い主のふがいなさに泣きの涙で、犬は一生飼わないとポチに誓ったのだった。

そんな思いが柴犬を見ると頭をよぎる。

ふとしたことで、ポチに似たメス犬とじゃれあっている間になんで「ポチ」なんだろうと疑問がわいた。

調べた。

大辞林第二版

(1)小さい点。ぽつ。「文章の切れめに―を入れる」
(2)(京阪地方で)芸妓や茶屋女などに与える祝儀。はな。チップ。「―袋」
(接尾)指示代名詞や数を表す語に付いて、それだけの数量しかない意を表す。だけ。ぽっち。「それっ―のことで怒ってはならない」「これっ―じゃ足りない」〔上の語との間に促音が入って「っぽち」の形で用いることが多い〕 」

秋田犬や土佐犬と比べて小さい犬にポチをつけるような気がしなくもない。
少量(小さい)に対しての形容から来る名称と捕らえていいのかな・・・

なぞと、

調べながら・・・こんなことどうでもいいじゃん。
と、思い直し、また柴犬を飼いたいなとポチへの誓いを破りそうな自分に気がついた。

認知症テスト

朝の情報番組で認知症の特集やっていた。

自分の周りにも、
「え!あの人が・・・」と思えるほどに身近になってしまった。

歳が重ねれば、おのずと同世代にもその傾向は顕著になるだろうことは、ある程度わきまえているつもりではあっても、実際に同世代に発症例があったと伝え聞くといささかショックではある。

それにしても糖尿病とガンと認知症がこんなに身近になるとは考えてもいなかった。
が事実だ。

そういう自分はどうなんだろうと思うに、
人の名前が顔と一致しないなんてのは日常茶飯事だし、

用事があって席を立って目的地まで移動すると、肝心の用件を忘れて「あれ?なんだったっけ」となって、元の位置まで引き返すなんてこともわりにある。

夫婦の会話でも「あれそれどれこれ」ですまされてしまうほど固有名詞の数が少なくなったこと。
長年連れ添った夫婦だから阿吽の呼吸で良いのだと思いたいが、「睦まじさ」とは違う次元で考えさせられることもしばしばである。

情報番組の内容にもどると、認知症予備軍を見つけ出すテストがあるという。
それは、「最近のニュース」を問いかけることなのだそうだ。

専門医の話では、以前は認知症を調べる方法として多項目を書き出すチェックシートを利用してしたというが、時間もかかるし、チェックシートの結果が、現状とそぐわないということが生じて、試行錯誤の末この結論を得たのだという。

それがこの問いかけなのだそうだ。

予備軍とおぼしき人の90%がこの「最近のニュース」という問いに答えられないのだと言う。

答えに窮すると「時間がなくてニュースは見ていません」
という理由を言う者もあるそうで、「忙しい」を理由としてこじつけることと考えられるのだそうだ。

社会に、外向きに対し関心さえあれば、ニュースの一つも耳に入らないなどチョット考えられないものな。

外部への問題意識が薄くなることが要注意信号なのかもしれない。

何にでも好奇心を持っていられるTONはまだ大丈夫ということだろうか。

有り余る好奇心も困りものではあるが・・・

時は絶対基準・・・?

今週末に姉の子供・・・つまり僕の甥っ子が結婚式をあげるという。

小さい頃から優男で、どちらかというと甥や姪つまり彼の兄や姉たちの影にいた甘っ子の末っ子が、「え!結婚!」と驚いた叔父さんであるTONなのである。

年月とはなんと速いものなのだろうか・・・
ついこの間まで、5000円のアルバイトと言えば仏壇の納品に飛んできてくれたり
我が家の4人のいたずら坊主共をいやな顔一つせず面倒見てくれていたり、あれこれとせわになってきた・・・

いつの間にか親子6人で暮らしているぼくのマンションより広い住いを入手し、大学なんて必要ないと社会に飛び出し、高給とりとなって一人暮らしでがんばっていた。

と聞いていた。
「一人暮らし」と聞いても「え~!」と思うこの叔父さんだったのだが。

時間と言うのは実に速い。速すぎる。

いやいや、僕の頭の中がスローリーになってしまっているだけなのかもしれない・・・が。

人それぞれ時間と言う尺度は平等に与えられていると思うのだけど、
なんとなくこの尺度は、絶対基準ではないようだ。

人それぞれの生き方によって、刻一刻、経過速度に微妙な変化があるようである。

そんな時間の妙味を今は感じてばかりいる。

アーケードに想う

ここは、何処かと言うと・・・
田原町の交差点近くの国際通り。

浅草にきたばかりの頃は、アーケードがずっと国際通りには施されていてなんともいえない光景だった。

何がなんともいえないかというと、時代を錯覚してしまう趣きがあったのだ。
口の悪いものには、暗くて薄気味悪いなんていうのも事実いた。

それは古くて低いアーケードに日が遮られていたからという理由以上に、店舗構成が、他の商店街にはあまりお目にかかれない業種が多かったからではないのだろうか。
今にして想えば何だったか記録しておけばよかったのだが、当時は何処となく漂う昭和の香りが心地よかった記憶のみ残っているのだ。


八目鰻のお店

最近は、都道にかかるアーケードは取り除く方向にある。
都道に限らず区道すら、アーケードの新設は許可が下りない。

理由は地震対策という大前提があるのだろう。
歩行者がつぶされては大変だということなのだ。

一見耳障りのよい理由だと思う。

が、しかし、本当にそれで安全なんだろうか・・・

最近の建築物はグラスウォールのこてこてのビルがファッション性からなのかもてはやされているように見受けられる。
近くで改築されるビルの説明会にTONは出かけていって、質問をぶつけてみたことがある。
「グラスウォールって安全なんですか?」って。
(素人はこれだから困るよ)とでも言いたげな表情をみせて、即、答えてくれた。

「全く問題ありません」設計者は話を発展させなかった。
結局、納得のいく答えを得ることはできなかった。

防災の専門家さん本当に安全なの?
あれほどの構造物の安全神話が、最近の地震でもろくも崩れてきたじゃあありませんか?

街を歩く時、今地震がきたら・・・
バラバラと降り注ぐ落下物、建築材からどうやって逃げようかとTONはいつも上を見あげ、シュミレーションしながら歩く癖がついてます。
意外と真剣に考えながら道を歩いているのですょ。

話を戻すと、アーケードってシェルターにならないの?
ということなんです。
と素人のTONは考える。

所々でもよい。落下物から身を守る強固なシェルターが欲しい。

いつ起きてもおかしくない周期にあるという大地震。
防災都市を考えるとするならば、アーケードを取り払うのではなくて強固なものに作り変えることこそ必要なのではないのかな・・・