影法師

真後ろにお日様の光を浴びた時の影法師が一番好きなTONなのです。
都会の真ん中を疾走していても、こういう光景に出くわすと自然と心が緩みます。

比較

「人の庭は青く見える」

とはよく言ったものだ。

「隣のお家は仲良かったのにねぇ」
「あのご夫婦がねぇ」
「あそこのご主人、子煩悩だったのにねぇ」

「~ったのにねぇ」
は、つまり、「何も知らなかったのよ」の裏返しなのだと思う。

つまりは、何も知らないのだ。
人のことは、どこまで行っても解らないのだ。

「解せない」
自分のことすら理解に苦しむことがあるんだから、他の人のこと、家の中など解りようがないのだと思う。

それをわかっているつもりでいる所に、人の不幸が生まれる。

小学生時代の僕の成績はすこぶる悪かった。
全く欲がなかったし、どこか宙を飛んでいる子供だったから、つかみどころがなかったのだろう。

小学校一年生の時「あなたの息子はどうしようもない」
仕事を休んで始めて行ってくれた面談で担任は、母親に対してくそみそに伝えた(ようだ)。
こんなこと言われたと終生(まだ健在だが)母の憤りは続いた。

比べて姉は在学中優等生を通した。
僕は常に比較の材料だった。
よく見れば秀才と言われる岳のことはしていたのだ。
コツコツ勉強をやり続けているのだから。
僕はと言えば、好きなことをさんざん遊びほうけていた。

その結果は、学期末になればみごとに顕れる。
つまらないことなのだが、
ただ、比較され続けたというこの呪縛は、少年の心にある種の種を植えるものなのだ。

一事が万事そういう事なのだと思う。

だから比較してはいけない。

ただ残念なるかな、人は比較できる動物であるしそれを原動力にもできる動物なのだ。

結局、比較することでどうするかなんだよな。

よき方向に向かえば、その差を挽回しようと大いなる力になろうというもの。
負の力、劣等感という力におのれの位置を見失い、踏み外したれば、世の不幸、災禍の種となるのは火を見るよりもあきらかだ。

さて、ぼくはどっちだったんだろう・・・

TONは、昆虫図鑑の大好きな少年だった。
あせもの攻勢に辟易しながらも、昆虫の溢れ帰る夏は大好きだった。

いつ頃からだろうか・・・
タガメやゲンゴロウに出会う機会もなくなったが、身近なものでしいて言えばクワガタやカブトムシさえも、今はゴキブリと同類項に見える。

好きと言う範疇から除外された。
今はあのかわいいカナブンさえあえて手を伸ばしたい衝動はどこかに消えた。

そうした思いに反比例するように、草木に愛でる気持ちが強くなった。

歳を重ねるたびにその度合いは強くなる。
これはどうしたことだろうか。

毎月の写経会に会員さんが用意する仏前の供花は、その後は僕の管理するところとなる。
洋花と和花が取り混ぜになって花立に収まり本尊前を荘厳してくれる。
花たちは日ごと枯れていく。
命あるものである以上仕方のないことなのだが、仲間が減っていくようで寂しいものだ。

まず洋花が消える根から切り離された洋花は朽ちるのが早い。水中にあってもドライフラワーになるのもいる。

が、和花は強い。

菊。

特に真夏、35℃を超える猛暑日の続く夏。
これほど厳しい環境にさえ。

水が腐ろうが、大輪を咲かせてなを頑張っている。
感動する。

つまらないほど小さなことなのだが、日々の中で感動を覚えるTONのだ。

いいわけ

ブログに精を出しすぎじゃないですか?
HP(ショップ)本体は止まっちゃいましたね。
と、時々言われる。しかられもする。

親しい友人からも、ネットショップの友人からも、そしてお客様からも・・・

考えると、おっしゃる通りなのだ。
以前は、と言っても10ヶ月ほど前までは、2時間睡眠と言っても差し支えないほどに寝ずの番でネットショップと格闘していたのだから。

お陰様で、そこそこの売り上げはついてきたし、お得意様も格段に増えた。
ため口を善しと言えるかは別として、冗談を言い合えるお客様以上のお付き合いができるお客様も増えた。

お客様とメールのやり取りをすると時間の過ぎるのもつい構わなくなってしまった。

深刻なご相談も承ることも少なくない。
こんな立ち入ったことに答える資格が自分にあるのかしらと思うこともしばしば遭遇した。
ネットならではの空回りもたびたび。

そんなこんなを取り混ぜても、やはりネットの出会いは深く、そして楽しい。
いつまで続けられるか解らないけど、感激のある出会いをしたいと思うのだ。

物とお金が動くだけのショップは僕には続かないし、それは他の人にまかせたい。

96年に「香りドットコム」というHPを立ち上げるべく、勉強を兼ねて高いサーバー代を出し、ドメイン料を払いスタートを切った。

こちらの勉強不足もあったけれど、サポートのないまま何だかうやむやの内に、しぼんでしまってネットの世界から遠ざかった。

2000年7月、思うところあって再チャレンジすることにした。
とにかく文字通り寝る間を惜しんで勉強した。
同時に以前の失敗は、人任せによる失敗だったことに痛烈に反省した。
だから手の届く範囲でしかやらないことにした。

ごめんなさい。
遅々として思い以上に進まない商品のリリース。
ぼく一人で運営しているからと言いたいけれどちょっと言い訳かな・・・

それだけ思い入れのある商品のみにしようという気がますます強くなってきた。

さて、こうしてまたブログに偏ったぼくのショップの一日が暮れる。

明日はどんなお客様に逢えるかな・・・

楽しみ楽しみ・・・

ここまでかな・・・

終戦ドラマスペシャル「歸國」を読書の傍らちらちらち観ていた。

日本が悪かったばかりの一色に染まるこの時期のマスコミの報道に最近は終戦ものにはほとんど目を向けないことにしている。
のだが、観るものがなく、たまたまつけたらやっていたというのが正直なところ。

期待しないで観ていた。
とも言えぬまでもながら族程度に観ていたのだが、そのうち読書を中断してテレビを注視することになった。

エンディングに近い場面で長渕氏扮する軍人が先の戦争に対する言のなかで・・・
なんて言ったかな・・・
はっきり覚えていないのだけれど、戦争の原因についてだったかしら・・・
いやいや・・・戦後の日本人がなぜこうなってしまったのか?との疑問への投げかけだったか・・・

ん!そうだ。確か「戦後日本は驚異的な復興は遂げたが・・・」という台詞だった気がする。

ただ、その台詞の浅さにいささかがっかりした。
もう少し掘り下げて欲しかった。

戦後の日本には明らかな意図的な言論工作があった。
東京裁判史観にしてもそう、GHQによって「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」という日本人へのマインドコントロールが終戦の年から7年間実行されてきたということもそう・・・。それらがイデオロギーと結びついて延々と続いてきた。

その種から芽を出した、ものの考え方が日本人の心に深く結実して、日本人なのに母国を愛せない人々を生んでいる。戦後65年たった今もなを日本人の心に。
植えられた種は生き続けているといった事実には全く触れていない。
まあそこまでは無理かなぁ・・・

そんなところで
「やっぱり今のメディアではここまか」と思いと、先の戦争に関してある程度ニュートラルなものの見方で編集されているといことにちょっとばっかり驚きを感じた。

夕立という死語

死語という言葉にはいささか言いすぎの感もある。

子供の頃、横浜の田舎であったけれど、夕方になると決まって雨が降った。
それもにわかに掻き曇り、ザー・・・っと降ってくる。
けれど子供たちは慣れたもので、ちょっと軒先を借りて雨宿りする時間で雨はすぐに上がることを心得ていた。

さっきの雨は何処に行ったやら・・・
雲間に夏の太陽は再びかえる。
つくつくぼうしが鳴き始め、夕刻の涼しさのうちに戸張が落ち始める。

今はその常識が全く役に立たなくなった。

「夕立」気温を下げてくれる、かつ夕刻を教えてくれた恵みのスコールであったのだ。

なぜ?降らぬ。

全く降らない。

降ればふったで、「ゲリラ豪雨」と呼ばれてしまった。
とても恵みとは縁遠く気難しい代物に成り果てている。

おっかしいなぁ・・・
日本人の・・・
(いやいやそう言うと角が立つかな)
僕自身も含めてややこしくなったこの時代に生きるものと歩調を合わせるように雨も気難しくなったと見える。

情緒をすら醸し出す夕立とやらには、もう逢えないものなのだろうか。

夏の終わり

朝の情報番組を観ていた。
その中のあるコーナーで
「最近の子供たちの夏休みの宿題の進捗状況はどうなっているか」

をテーマにしていた。

まず驚いた。
子供たちの宿題の手際の良いことにである。

ドリルはほぼ完了している、作文類は5~70%、自由研究や日記類はさすがに日を重ねないとできないものは、しかし着実に手がけている。
すこぶるしっかりしている。
し、そういうシステムを学校側もとり始めている。

冷房完備の教室をもつ最近の学校設備の状況を考えると、いっそ夏休みなど廃止したらよかろうにと僕は考えてしまうのだが・・・
(お盆休みは伝統文化維持の為に残しておきたい)

番組のキャスターら大人たちの子供時代を振り返って同時期の状況を質問されると、0%と言う答えが半数を占めていた。
僕もご他聞にもれず、その大人たちの仲間に入る。

8月31日の夜は朝までかかって家族総出でなきながら突貫工事をした記憶もある。

着実にクリアーしていく現代の子供たちのしたたかさに驚きはする。
が、反面、塾や習い事にスケジュール闘争をし、友人みんなが集まれるのは夏休み中何回もないと答えた子供に、て炎天下のプールに毎日通う真っ黒になる子供の姿の少ないことに一抹の寂しさを感じたのは僕のみではなかったろうと、勝手に考えてしまった。

公園に行けば友人たちが炎天下の中であろうと、ランニング姿で真っ黒になった友人たちが遊びまわっていた光景が、いつでも目を閉じると思い浮かぶのだ。

もう秋

立秋を越えて・・・秋。

と言っても、立秋ってこれから秋に向かうということなんだ。
暑さは一番。最高潮。

ピークは今。
でもねあとは涼しくなるのを待てばいいんだ。
ということ。

外で働くみなさん。くれぐれも身体に気をつけて。

お家の中にいるみなさん。お水を飲んで乗り切りましょう!

は~~~。

暑っ!!

誕生日というもの

四捨五入すると赤いものを着る大台に乗ってしまう歳になってしまった。 (まだあと五年あるからちょっと間があり、チョット安堵しているのだが)
お店の子が察してくれて近所の高いケーキで祝ってくれた。

想えば不思議なものだ。
33歳が自分の終了の歳だと、深刻に思い続けたことがうそのように時が流れた。

その思い込みは何処から来たのか?と質問されても、実のところ答えられないのだ。
が、10代半ばから何故か、深刻にそして真剣に思い込んでいた。

33歳までは引き算の人生だったし、それを越えてみると足し算の人生と思えるのだ。
振り返るとそのT・Pの歳に上さんと暮らし始めた。
つまり文字通りT・P(ターニングポイント)なのだと思う。

どういう縁なのだろうかいつも不思議な感覚に襲われる。

上さんに時々話すが、いつも信じてはもらえず笑いでぶっ飛ばされてしまう。
もしも結婚するならば、化粧はしない人がいい。名前は○○がいい。素朴のほうがいい・・・と自分の姿も省みず御託を並べていた。10代後半のことだ。

家庭を築いて数年たったある日、ふと気づいた。
あれ?自分の考えていた以上に全てが的中しているじゃん。
むしろもうちょっと抑えてもいいくらい・・・と思うほどそれは「叶えられていた」(あえてそう言う表現を使いたいと思う)
相手に対しての要求は全部かなえてくれたことになる。
本人は全く忘れていたというのに。

きっと神様と言うおかたはいるのだろう。
果たして自分はどうなのだろう。

「お礼参り」と言う言葉がある。

人はよく神社や寺で願をかける。
日本人ほど(何の神様にも)お参りするのが好きな人種は、世界にも稀ではないだろうか。
寺に神社に教会にモスクに道の地蔵さんに・・・構わず手を合わせ願い誓う。

でもそれは結果から見れば「願い」だけが多いように思う。
神仏に誓い、お願いし、叶えられたとき嬉しさのあまり(なのか?)、神仏の前で誓ったこともすっかり忘れる。お返しすることなど何処吹く風。
喉もと過ぎれば・・・の例えどおりであり本来これほど失礼なことはないのだという。

歳を重ねるたび、当日になるといつも思い出させられること。
終了だと思っていた日が、人生出発の日にさせてもらっていると言うのに・・・
この足し算の間に何をお返ししなければいけなかったんだっけ・・・

と。

観音水

今日は寝坊した。

三男の夢にうなされながら、あまり良くない夢に嫌気がさして、もうこんな夢やめてしまおうと目を開けてみると・・・あれ。

6時を過ぎている。

太陽がしっかり高い。

この時期、お日様を避けたくて5時に走り始めているのに、大幅に遅れた。
暑い中・・・止めちゃおうかなあ・・・

習慣とは恐ろしいもので、体は勝手に走る準備をしている。
無意識の内に次の行動を取っていて、あれよあれよと玄関を出ている。

しかしさすがに暑い。
金魚鉢の中にいるみたい。
やたらと熱中症のニュースが飛び込んでくるから、つい要注意。

だけどね・・・
僕らが中学高校の頃は運動中の水はご法度だったの。あれ何だったんだろ。
合宿で箱根の山越えしたときも、「水は飲むなー」とのどからから、頭ガンガン、なのに一滴も飲ませてもらえなかった。

ん~ん。

真夏の運動場をそんきょで何週させられたことか・・・
でも「水は飲むな!」

ん~ん。

時代変われば、対処も変わる・・・
でもよく死なないで育ったものだと感心する。

さてジョギングの最期は浅草寺による。
ここにはね、昔ながらの井戸水が出るのである。
さすがに飲めないけれど、井戸水だけに冷たくて実に気持ちがよい。
僕よんで「観音水」

僕のトレンディーなのである。

観音水をいただいて、今日の始まり始まり・・・