立秋を越えて・・・秋。
と言っても、立秋ってこれから秋に向かうということなんだ。
暑さは一番。最高潮。
ピークは今。
でもねあとは涼しくなるのを待てばいいんだ。
ということ。
外で働くみなさん。くれぐれも身体に気をつけて。
お家の中にいるみなさん。お水を飲んで乗り切りましょう!
は~~~。
暑っ!!
TONちゃんの勝手な思いをいつも考える、お客様のこと、浅草念珠堂のこと。。。
立秋を越えて・・・秋。
と言っても、立秋ってこれから秋に向かうということなんだ。
暑さは一番。最高潮。
ピークは今。
でもねあとは涼しくなるのを待てばいいんだ。
ということ。
外で働くみなさん。くれぐれも身体に気をつけて。
お家の中にいるみなさん。お水を飲んで乗り切りましょう!
は~~~。
暑っ!!

四捨五入すると赤いものを着る大台に乗ってしまう歳になってしまった。 (まだあと五年あるからちょっと間があり、チョット安堵しているのだが)
お店の子が察してくれて近所の高いケーキで祝ってくれた。
想えば不思議なものだ。
33歳が自分の終了の歳だと、深刻に思い続けたことがうそのように時が流れた。
その思い込みは何処から来たのか?と質問されても、実のところ答えられないのだ。
が、10代半ばから何故か、深刻にそして真剣に思い込んでいた。
33歳までは引き算の人生だったし、それを越えてみると足し算の人生と思えるのだ。
振り返るとそのT・Pの歳に上さんと暮らし始めた。
つまり文字通りT・P(ターニングポイント)なのだと思う。
どういう縁なのだろうかいつも不思議な感覚に襲われる。
上さんに時々話すが、いつも信じてはもらえず笑いでぶっ飛ばされてしまう。
もしも結婚するならば、化粧はしない人がいい。名前は○○がいい。素朴のほうがいい・・・と自分の姿も省みず御託を並べていた。10代後半のことだ。
家庭を築いて数年たったある日、ふと気づいた。
あれ?自分の考えていた以上に全てが的中しているじゃん。
むしろもうちょっと抑えてもいいくらい・・・と思うほどそれは「叶えられていた」(あえてそう言う表現を使いたいと思う)
相手に対しての要求は全部かなえてくれたことになる。
本人は全く忘れていたというのに。
きっと神様と言うおかたはいるのだろう。
果たして自分はどうなのだろう。
「お礼参り」と言う言葉がある。
人はよく神社や寺で願をかける。
日本人ほど(何の神様にも)お参りするのが好きな人種は、世界にも稀ではないだろうか。
寺に神社に教会にモスクに道の地蔵さんに・・・構わず手を合わせ願い誓う。
でもそれは結果から見れば「願い」だけが多いように思う。
神仏に誓い、お願いし、叶えられたとき嬉しさのあまり(なのか?)、神仏の前で誓ったこともすっかり忘れる。お返しすることなど何処吹く風。
喉もと過ぎれば・・・の例えどおりであり本来これほど失礼なことはないのだという。
歳を重ねるたび、当日になるといつも思い出させられること。
終了だと思っていた日が、人生出発の日にさせてもらっていると言うのに・・・
この足し算の間に何をお返ししなければいけなかったんだっけ・・・
と。
今日は寝坊した。
三男の夢にうなされながら、あまり良くない夢に嫌気がさして、もうこんな夢やめてしまおうと目を開けてみると・・・あれ。
6時を過ぎている。
太陽がしっかり高い。
この時期、お日様を避けたくて5時に走り始めているのに、大幅に遅れた。
暑い中・・・止めちゃおうかなあ・・・
習慣とは恐ろしいもので、体は勝手に走る準備をしている。
無意識の内に次の行動を取っていて、あれよあれよと玄関を出ている。
しかしさすがに暑い。
金魚鉢の中にいるみたい。
やたらと熱中症のニュースが飛び込んでくるから、つい要注意。
だけどね・・・
僕らが中学高校の頃は運動中の水はご法度だったの。あれ何だったんだろ。
合宿で箱根の山越えしたときも、「水は飲むなー」とのどからから、頭ガンガン、なのに一滴も飲ませてもらえなかった。
ん~ん。
真夏の運動場をそんきょで何週させられたことか・・・
でも「水は飲むな!」
ん~ん。
時代変われば、対処も変わる・・・
でもよく死なないで育ったものだと感心する。
さてジョギングの最期は浅草寺による。
ここにはね、昔ながらの井戸水が出るのである。
さすがに飲めないけれど、井戸水だけに冷たくて実に気持ちがよい。
僕よんで「観音水」
僕のトレンディーなのである。
観音水をいただいて、今日の始まり始まり・・・
夕方、変わったお客様がみえた。
「東京芸術大学の学生です」
と訪問。
上さんが応対していたが要領を得ず僕にバトンタッチ。
ゼミの研究で浅草から墨田にかけてスカイツリーをテーマにしたパフォーマンスをしたいので協力して欲しいというのだそうだ。
「パフォーマンス?どんなことするの?」
と聞くとまだ何も決まっていないのだとか。
ふ~ん・・・
芸術畑育ちらしいお嬢さんたちは、身分を明かすことも忘れ熱っぽく説明するが、企画のベースがわからないぼくにはちんぷんかんぷん。
でも何かやりたいと言う気持ちだけは伝わる。
お返しに、僕の店の位置する雷門とはどういうところなのか、ここに商店会をどうして今の時期に作ったのか、何でこのネーミングにしたのか、なんでこの場所を愛するのか、浅草人の気質は?などなど。歴史をまじえながら小一時間熱っぽく語らせてもらった。参考になったのかならなかったのか・・・
話しながら・・・
この構図って、家族には辟易されている薀蓄好きの爺さんが、一方的にだれ彼なしに若い者を捕まえては話し続ける嫌われ爺さんのパターン?
と、心の中で苦笑しつつも延々と話してしまった。
ごくろさん。
どうとらえたろう・・・か。
と言っても東京のお盆のこと。
以前は忙しくてヒハーヒーハーしながら、この時期を過した記憶があるのだけれど・・・
最近は、違う忙しさになった気がする。
以前は確かにお盆行事としての用具つまり、お盆提灯やお進物のお線香や仏具など、先祖供養に関する品物を買いに来られるお客様が多かった。
けれど入店率は間違いなく増えた。
じゃその変化した部分ってなんだろう?
国籍が違ってきた・・・つまりお客様が多国籍になった。
日本語が聞こえないときもある。
ちょうどお盆にあわせて、浅草はほおづき市やあさがお市といったお祭があるから、観光資源には事欠かない。だから人の足も洋の東西を越えて集まっていただける。
だからかな。
お盆の質も人も商品も変化している。感がする。
朝、5時に目がさめて、飛び起き・・・と言うまでには行かないけれど、走りたい気持ちが相変わらず。重い体を起き上がらせるパワーになる。
用意を素早く済ませて飛び出す。
少し風があってヒンヤリしている。
朝一の空気は、こんな所に住んでいても格別のものがある。
柔軟体操を終えて歩きながら手をぶらぶら。
駒形橋を渡りながら、川面を見ているうちにいつものコースに足が向かない。
横網町の震災記念館を見たくなった。
橋を渡りきって、右に折れる。
高速の出口と言うこともあるけれど、実に殺伐としていた光景。
清澄通りに沿って川沿いの小道が続く。
と言ってもそれ街中のこと、自然の中を走る爽快さは微塵もない。
10分も走れば両国国技館の横に出た。
近すぎて意外。千葉街道までぐるっと遠回りをして、戻る形で清澄通りに戻り横網町に向かう。
鬼平犯科帳の舞台、弥勒寺はこの辺だったなと思いながら見つからず、慰霊堂脇の入り口から園内に入ることにした。
いつもここを訪れるのは夕刻が多いから、だいぶイメージが違う。
何十万柱の遺骨が眠る慰霊堂。おどろおどろしかった雰囲気もどこか払拭した感がある。何故だろう。
何気なく暮らしているこの地域なのだけれど、たかだか半世紀前さらに80年前にこの地を襲った不幸の上に自分たちは、こともなげに生きているんだなと思わされる。
(仕事の合間)
あ!そうか。
今日は13日か・・・
突然震災記念館に足を向けたく
ふと思い立った理由がわかった気がする。
朝はジョギングから始まる。
布団の中で背伸びをし、固まった関節を弛ませて準備をする。
僕のホームコースである墨田川沿いには、ブルーテントが山と建っている。
ブルーテントの住人とは猫を介在して時々話がはずむ。
夜になると、町の辻辻、シャッター前には、今宵の夜露を避けてダンボールが集まる。
今だ数度しか話はしないが、様々事情を抱えてこの生活に入った。
ダンボールやブルーテントならまだましな方で、着の身着のままで横たわる連中も少なくない。
目を背けたくなるほどの薄汚れた連中もいるけど、それなりにこざっぱりしているのもいる。
今の姿だけを見ていると、何故?こんな生活にって思っていまいそうになるのだけれど、でも、過去には無条件で愛された時期はあるんだよ。
彼ら彼女らを見ていると、彼ら彼女らの親に想いを馳せる自分に気づく。
彼ら彼女らが、シューッと赤ん坊に戻って母親の腕に抱かれている姿がダブって見える。
彼らとて親に抱かれ育った時期はあったんだろうにと。
ぼくが自転車でさかんに走っていられたのは、24歳まで。
仕事を変わる前のサラリーマン時代。当時24歳が競輪学校の年齢制限だった(と思うが)こともあって、入校を真剣に考えたこともあった。
海外協力隊の研修センターが近くにあったこともあり、そこにも憧れをもちながら迷っていたのだから気の多い奴だったのだ。
ま、とにかく自転車が好きで好きでしょうがなかった。
そんなで自宅のあった横浜から、仕事場の横須賀までほぼ毎日自転車で通い、休みとなれば、クラブ仲間と長距離のツーリングで峠と温泉宿を結ぶ林道を走り回っていた。
ひょんなところから、安定した生活を捨てちゃったから、とても自転車趣味は封印せざるをえなくて、友人に譲った一台を除いて当時所蔵していた、5台の自転車は全て手元から離れていった。
そんな陸に上がった河童の体で四半世紀。
ただ、昭和の終わりに一度だけ、サイクリストの血が騒ぎだし復活の兆しはあるにはあった。
それが、今、唯一手元に残っている片倉シルク(倒産済み)のロードレーサーが縁を持った。
昔、クラブ仲間に貸したままだった(実は記憶違いで売っていたのだが)一台なのだが。
「お嫁に行ったから今はもう乗っていない」と貰った年賀状に書いていた一言に誘発され、使っていないなら返してもらおうと友人の実家のある横須賀まで取りに行った。
久しぶりに対面した愛車は、見るも無残に古びていた。
物置につっこまれメンテナンスもされないままにいたためだろう、フレーム意外のパーツは風化の一途をたどっていた。
ホクホクしながら浅草に戻り、足りない部品を買い集め組みなおした。
当時は体力も充分あったし、足りないパーツも簡単に手に入った。
20世紀中はさほど、自転車業界も進歩はなかったのだろう。
けれど、バブル崩壊の余波の影響はぼくの仕事にまで足音を忍ばせ、激変の形で顕現した。とてもじゃないが、趣味に興る余暇はついに犠牲となった。
そして昨今。
ふとしたことから(子供に自転車競争で負けた意地からなのだが)
50を過ぎてもう一度ゆめをと、愛車に手を入れ始めた。
今度は本格的に組みなおして、長距離を走れるようにしようとした。
が、どうしたことかパーツが揃わない。
時代は変わったのだ。
21世紀に入り自転車業界の環境が激変した。
生産拠点は中国に移り、余りにも安価なスポーツ車が名車を席巻していた。
使い捨てを前提にしたアルミやカーボンフレーム全盛の時代。
素人は手を出せない(出して欲しくない)工場性品製品。
新しい規格への移行。
そんな変化が21世紀に入ったとたんに始まったのだと聞いた。
当たり前のように存在していたはずのハンドメイドメーカーが次々に倒産の憂き目にあっていた。
昔はこの世の春を謳歌していた大手サイクルショップも、「もうだめなんだよ」と自分たちの時代の終わりを告げる主人たちの言にいささか驚きもした。
それだけ海外製品に押されている現状と、丁寧に永く持つ時代から、安く、軽く、速く走れればよい。の感覚が乗る側にも蔓延してきたのだろう。
パーツをコツコツ買い集め、好きなマイ自転車を組み上げ自分で走る。メンテも自分、大事に使う。は古くなったのだろうか。
エコブームはサイクルブームに火をつけた。
果たして、道路事情は良くなったか・・・
全くもって十年一昔どころではなく30年前の環境と何も変わらない。
変わらないどころか、マナーは間違いなく落ちている。
おまけに車も大型高性能化していて、車に乗せられている輩も多いからか、「相身互い」という日本の伝統を教えられない教育からなのか、平気で追い抜き様左折したり、幅寄せをしたりと知らぬとは言わせぬマナー違反を体験且つ目撃する。
実際は、自転車で走り車の流れに乗ってしまえばどうということもないことでもあるのだが、あえて命がけで自転車に乗りたいと思わなくなってしまった。
どうやら歳をとったのかも・・・
とも思ったりもするが、必ずしもそうとばかりとも思えない。
ジョギングをしてみるとよくわかる。
はっきり区分けされた所を走る環境は命の危険を伴わない。
むしろ暴走ママチャリの危険にさらされはしているが・・・
自転車の風になる爽快感は得もいわれぬ良さがある。だから続くのだ。
が・・・
その魅力をもってしても都内の交通事情はいかがなものか、走りたいと思うその芽を摘む。
まだ家族を残して死にたくないし、お世話にもなりたくないとも思う。
まあ無理することもないか・・・
そんな気持ちが朝のジョギングにエネルギーを傾けるのかもしれない。
そのくせ、
新しいのを一台買いたいとお金を貯めているのだから、矛盾を絵に描いたような自分なのである。
なんてない。
何一つ無駄なものなんてないし、
当たり前なことなんてない。
朝、目が覚める。
床から起き上がる。
身体を起こす。
洗顔をする。
歯を磨く。
朝食をとる。
出社前に、もよおして厠に入る。
気持ちよく済ませる。
流す。
支度をし、玄関に行って靴を履き出かける。
今日の仕事に思いを馳せる。
・・・・・etc.
ある人は、また一日が始まっちゃた。
あれもやらなきゃならない、これもやらなきゃならない・・・
そう思う人もいる。
子供時代は虚弱だった。
それはそうだろう。
母が唯一の働き手であった我が家だったが
しかし僕は保育園にも幼稚園にもいかなかった。行けなかったと言うのが正しい表現かもしれない。
日中は布団からまず出ることもなくテレビもないしんとした暗い部屋で過ごし、
姉が小学校から帰ってくるまで、一人で留守番をしていた。
サンサンと照る太陽の下、黒くなることもなく、友人と遊びまわって泥んこになることもなく、骨と皮の5歳児となっていた。
一年以上を日陰者のように過ごせば、生物学的にもどうにかなってしまうだろうて。
あまりにも目に余り、心配のあまり、母はTONを田舎に預けるほどだった。
数ヶ月の田舎暮らしに多少の人間らしさを取り戻しはしたが、虚弱さは相変わらずだった。
小学校に入学時には、友人との駆けっこについていけたためしはなかったし、
学校にもがぜん休みがちとなる。
だって体が持たないんだもの。
たまに登校しても持たなくて、保健室で寝ていると、天井を見ながら、何でこうなんだろうと子供心にも悲しみを覚えたものだった。
中学から初めた剣道は、自分の起死回生となったのだが。
そんな時代を経たせいかな。
当たり前と言うのが自分の中にはない。
朝目を覚ませるのか解らなかったし、
今日は美味しく食事ができるても明日は気持ちが悪くてのども通らないなんていうことでわからなかったし・・・
何だろう・・・
そうだったのだ。
当たり前にできることが不思議でならなかったしその癖がいまだに続いている。
子供時代は、狭い範囲でしか視野がないから、自分を不幸の中心においていたけれど、
大人になるに従って、ボランティアの真似事に首を突っ込んでみたりして
「あたりまえ」に胡坐をかくことの愚かさを肌身に沁みて解ってきた。
だからこそ感謝ができるのだろうと思う。
「あたりまえ」を捨てることができれば「感謝」を拾えるのだと思う。
そんな思いを常に感ずることのできる感性が自分の中にありますように・・・
そうでありたいと思う。
惑星探査機はやぶさの大気圏突入。
トラブル続きで予定を3年もオーバーしながらも地球に帰還し燃え尽きた姿に感動を覚えた。
「いとかわ」とはおもしろい名前だな、日本人が関わっていたのかなと思い調べてみた。
日本におけるロケット開発の父、糸川秀夫博士が関わっていたとは知らなかった。小惑星「いとかわ」が糸川博士にちなんでの命名だったんだ。
そして惑星探査機に「はやぶさ」と命名された要因に、戦時中陸軍の名機である一式戦闘機「隼」があったなんて知らなかった。
もちろんこの隼は、糸川技師による設計でもあったという。
なんとなくジ~~ンときた。