まさに日記だ・・・

2004年4月19日

TONちゃん日記を書き始めた記念すべき?日。

http://www.nenjudo.co.jp/topics/topics.cgi?page=390

「ブログというのがアメリカから押し寄せてきそうだ」とウェブショップの勉強会では当時話題になっていた。
まだブログを「ウェブログ」と呼んでいた。
(今でも本式にはそうなのだけれど・・・)

けれど、このときはcgiで日記を作り、とにかく三日坊主のぼくが何処までできるか解らないけど、やるだけやってみようと始めたのだった。

が、意に反しほぼ毎日書き続け、今日に至ってしまっている。

途中からcgiの調子がおかしくなってきたので、すでに主流となっていたブログを利用して引越し、再スタートとなった。

だから、足掛け6年続いたことになる。

(へー!石の上にも3年と言うのにその倍かぁ・・・)

正直な気持ち。

手書きの日記なんて数日も続かないのに、実に面白いものである。

何年前のこの日は「何を」「どんな考え方」をしていたのだろうと振り返ってみるとこれまた尚、面白い。検索という手もあって、キーワードを打ちこめば、話題の中心を簡単に探すこともできる。

変化の中には、

当時日記の主人公がもう鬼籍に入ってしまったのもいる。

反面、めっきり年をとってしまっている仲良しのお客様も、日記の中には活き活きと書かれている。

当時乳飲み子だった子供も、小学生になっている。

お母さんの手伝いをしてあげなねと頭を撫でた子が、マサチュセッツのエリートになってしまったのもいる。

いつかお坊さんだね、と言ったあの人が、りっぱな坊さんになっている。

何がマイ流行だったのかも知らされる。

人様に公開する公共の場に個人的感情を書き連ねるのには抵抗を感じた。のは始めのうちで、調子に乗って、随分書き荒らしてきたような気がしてやまない。

どうか今しばらくはお付き合い願いたい。

浅草ナンバーということ

ナンバー。

なんの?

自動車や原動機付き自転車についているプレートのことである。

陸運局に申請をして認可を受けた車輌だけがつけることを許される、あのナンバープレート。

浅草に住んでもう四半世紀が過ぎた。
自動車は仕事上なくてはならない存在だから都会の真ん中で持ちたいとは決して思わないが、図らずも肌身離さず・・・と表現してよいものか・・・ずっと相棒として存在している。

当社の位置からして、管轄する陸運局は足立区にある。

ということは、ナンバープレートは、「足立○○」という表示になる。

僕の母方の親戚は宮城県に住む。

若い頃、当時の若者の誰もがそうだったように、ごたぶんに漏れず大の車好きだった。

彼は、友人と同じ宮城ナンバーを好まなかった。
なんと横浜ナンバーにあこがれた。

そこで横浜に住む実兄のところに目をつけた。
彼は、仙台陸運局を袖にした。

わざわざ横浜に出てきて車を買った。
正確に言えば、買ってもらった。

もちろん実兄に金を出してもらい、かつ車検を通した。
ナンバーは憧れの「横浜○○」だった。

二年ごとの車検のために、わざわざ横浜に上京することになったのは言うまでもない。

ナンバープレートを見るとそんな記憶が蘇るTON店長なのだが、「足立○○」とも長い付き合いだなと時々思うことがある。

そろそろどうだろう・・・
お別れにしてはとも思う。

足立区でもないのに「足立」。
ここは台東区だよ。おかかしいよ。とも思う。

ん~~。

足立ナンバーをつける車輌は100万台を超えていると言う。
車を管理する方も、手が回らなくなっているのではなかろうか。

そろそろ一手に抱えるのをやめて、地方に分散したらいかがなものだろうか。
そこまで大上段なことではないにしろ、各区ナンバーがあっても良いのではないのだろうか。

浅草に住んでいるのだから、浅草ナンバーがあったらいいな。と思う。

ご当地ナンバーと言うらしい。

2006年10月10日、国土交通省の方針で「今般、地域振興や観光振興等の観点から、ナンバープレートの地域名表示を弾力化し、自動車検査登録事務所の新設の有無にかかわらず、新たな地域名表示を認めることとする。」とした。

19の都市が名乗りを上げてご当地ナンバーが施行されたと聞く。
近くには、成田、柏、川越、那須、つくば・・・
富士山なんてのもある。

より身近に感ずるではないだろうか。

僕の親戚ではないが、「浅草」なんてあったら、祭り好きや浅草好きの人間には、もしかしたら他の県からも要請がかかるかもしれない。

自動車行政が地方自治体に任されるようになったら(原付はすでに任されているが)、自動車税の争奪競争が起きて拍車がかかるかもしれない。

地元を愛する今日度合いを高める効果につながりかつ
都市間においてのサービス競争があってもいいのではないだろうか。

こんなの発見

本屋で立ち読みしていたら、目に付いた。

あまり聞かない出版社だったし、

批判本はあまり好きではないし、

表紙も好みではないし・・・

すべてないないづくしだったのに・・・

しかも欲しい本があって本屋にいったというのに・・・

衝動買いしてしまったのです。

だって・・・意外に当を得た論評が書いてあったんだ。
ここに住んでいると、たしかにそうそう。
じゃあどうしたらいいのと言う所まで書いてあって、分からず屋には自分を見つめるよい材料だと思ったわけなのでした。

各区の本があるようです。

浅草は山の上?!

ずっと以前、ある本の依頼でおこした文章なのだが、たまたまというか、地下鉄のバリアフリー化の風潮を感じてあの文章は何処にいったっけとようやく探しあてた。

古いパソコンにタイムカプセルのごときに保存されていた。

今読み返してみると案外新鮮に感じる。
当を得たり!と思うふしもあり、自分の文ながら可笑しい。

妙に納得してみたりしきりである。

以下にご参考まで。

若い頃、よく富士登山に出かけた。
登山とは名ばかりで駆け上がったり、自転車を担いで上ったりと若気の至りで奇妙な行動に走っていた。

ただ、元々、体力が溢れる程にあるわけではないものだから、頂上を目の前にへばる。

すると途中、登山道で抜いてきた、歩調の遅い白装束の集団に次々と抜かれていく。

決まって呪文(当時はそう思っていた)を口にしながらその集団は追い越していくのである。その声はいまでも脳裏に焼き付いている。

「ろっこんしょうじょう」「ろっこんしょうじょう」?そう、これは、六根清浄と書く。今では笑い話であるが、これはパワーの元なのか、はたまた疲れない呪文かと真剣に思った。

六根とは、般若心経によく出てくる眼、耳、鼻、舌、身、意を差しこれが人の執着の根本であるからこだわりがなく、きよらかにする事(浄化・清浄)が大事なのだそうだ。

だから山は、お寺(信仰)と切っても切れない間柄といえる。日蓮宗の本山である身延山には山門(三門)から本堂の間に287段の大階段が待ち受けている。

これを菩提梯と呼ぶ、ここを上れば悟りの涅槃に到達すると言われる。

私も何度か出かけたが果たして涅槃までとは行かないが、
「こんな坂を上るなんて聞いてないよ」等という不満の思いもいつしか、「あー自然が美しい」などと文字通りしたたり落ちる汗と関わりなく無心に還ることができる。

歩きながら禅定にあるような気になる。
だから涅槃坂なのか。
比叡山の修行にも回峰行がある、無動寺谷を文字通り走り、駆け抜ける。

人間技と思えない信じられない光景が展開されるが、まさに邪心が働いては動きようがなかろう。多かれ少なかれ山が信仰の対象になることはうなずける。
山とお寺は切っても切れない間柄。

○○山○○寺(院)と必ず山号(さんごう)がその名に配される。
天台宗の比叡山、真言宗の高野山、曹洞宗の永平寺、日蓮宗の身延山も……。
では、浅草は…?金竜山という見えざる山が高くそびえている。信仰上の山名。

もう一つ(やっと本題)地下鉄でここ浅草に来られる方には、実感の、大いなる六根坂があるのである。都営地下鉄で129段、営団で86段(出口によって差異あり)。

ちょっと計算してみた。

1段を約15cmとすると129×15=1935cm約20mつまり6階建ての建物位だろう。

今どき6階建ての建物をテクテク歩いて上る御仁が何人おられるだろう。文明の利器を借り、こともなげに目的を達するのではなかろうか。

ここを登らずして涅槃はなしといわんばかりにそびえる菩提坂(階段)。
でも、地上までの一段一段は、ぜひ楽しんでいただきたいものだ。

そう六根清浄、六根清浄の呪文を忘れないで。

頂上には峠の茶屋も待っている。

ついでにご説明させていただくと、峠の茶屋には、コーヒーショップもあれば、もんじゃ焼きも中華もある。

こんなに賑やかな峠の茶屋はここだけのものだろうと誇りに思う。

まもなく200万足跡

今日、明日には、ご来訪者が200万人を突破する見込みです。

正直なところ・・・
へ~~

なのです。
同時にありがとう。と心から思います。いい出逢いでありたいな。

三社祭の反芻

お祭りが終って4日も経つのに、今年は何となく余韻が抜けない。

去年は、梅后流かっぽれのお師匠に最大援助をいただいての百人踊りや、江戸源流の葛西囃子保存会のお囃子の屋台、そして商店会のくじ引きなど初めてのことばかりの連続で頭がどうかなるほど忙しかった。

けれど、祭りが終わればとたんに、非日常から日常にすかっと切り替わってしまえた。

今年はどうかというと、股木(またぎ)提灯を立ち上げ、商店会員であり友人の「皇の会」(すめらぎのかい)への協賛で、雷門前のお囃子の屋台に協力させてもらったのみで、忙しかったのは友人だけで、TONちゃんは去年比べたら月とすっぽんのお気らくもんだった・・・

そのせいと言うべきなのか、どことなく僕の中ではいまだに祭りが続いてしまっている。

歴史と伝統のある町だけに、新しい潮流を起こそうとすることに対して、並大抵のエネルギーではできなかった。それだけは言えることなのだ。

お囃子はいらないと言うところで、祭りにお囃子がなければ寂しいと思う気持ち、祭りに来られるお客様方に奉りらしさを伝えたい、を形にさせてもらった。

でも蓋を開けてみると、予想以上の喜びの声が耳に届いた。

ありがたかった。

神輿を担ぎにここに来た人たち、見物の人々、道を埋め尽くす人々から
「浅草らしい雰囲気に堪能した」
「さすが浅草のお囃子はよかった」
「また聴きにきたい」
「お神輿も良かったけど雷門前のお囃子はすばらしかったよ」
「うちの祭りにも来て欲しい…」 etc. エトセ 
の、声があまりに多く寄せられたことだった。

本番前日、全ての準備が整いかけた夕刻、あとは明日だね。という直前になって、お囃子の屋台の手直しを指摘され、当日の朝まで徹夜して直すということもあったりと黒この部分では必死にぼがいていた。

上げたらきりがないほどのことがあったけれど、お客様の喜びの声をいやというほど聞かせてもらったら、全ての苦労がいっぺんに吹き飛んだ。

また来年もお囃子で賑やかしたいものだと思っている。


無形文化財に指定されてもおかしくない方々なのだ

屋台からの眺めはこんな感じになる

浅草にちんちん電車

と言っても、都電の延伸ではない。

ちんちん電車。
今どきは、LRTという。

浅草に逢いに初めて足を運んだのが、高校時代。
都電に乗りたくて学校を病欠し、神田からの28系統に乗ったのがそもそもの縁。

もちろん浅草は伝助や芸能の発信地として、物心つくころからの行きたいNO1の場所として幼心に擦りこまれて育った下地はあったにはあった。

が、真面目?な学生がそこまで行動を起こしたのは、鉄(鉄道マニア)の血の芽生えと共に・・・であったわけで、深川や浅草への憧憬は鉄の血によって実現されたということだ。

神田神保町の交差点から柳島福神橋までの車窓は、少年の心に忘れることができないものとなった。おかげでその後の人生の展開に大きく影を・・・いやいや、おもしろく転がっいったのだ。

しかし、昭和47年に旧東京市電は全廃されてしまった。

時は流れ・・・

スカイツリーが川向こうに計画されて、過去にもあった都電の延伸計画とは全くことなる浅草のLRT計画が噂された。

にわかにその噂を聞きつけ、おかしな縁にて参加するとができた。

なんだか不思議な気がする。

それにしても走るといいなあ・・・


こんなかわいい連接車構想


架線を必要としないLRTもある

トンネル

この絵は、30年前竜飛だか大間へ向かう道すがらの写真だったと思う。

雨男の僕の時らしく、しとしと雨が道路をぬらしていた。
今はどうなったか知らないけれど、当時は素彫りのトンネルがあちこちに口をあいていた。

トンネル内からのシルエット写真は好きでよく撮っていたがこれはその一枚。

だいぶネガが痛んでしまっているのは、30年という時の隔たりを充分に感じさせてくれくれる。
大のトンネル嫌いが、トンネルの構図で写真を撮るのはは大好きと言う相矛盾さ。

トンネルをくぐるとそこは雪国だったことは、山越えのトンネルでは良くあることだった。

走りなれない時分はその変化が頭にあらず、トンネルを出た先で、アイスバーンにひっくり返ったり、雪の吹き溜まりに突っ込んだりしたものだった。

けれど考えてみれば元気だったなぁ。
木枯らしが吹き出すと、小瓶を忍ばせて、わざわざ冬の峠道を選んで走ったのだから。

峠の陽だまりを見つけて、湯を沸かせて紅茶を入れるあの楽しさはなかなか口で説明できない悦の世界であった。

昔のツーリング仲間も年のせいか林道はやらないと言っていたし、自転車の性能も道路も格段に良くなったのに、反比例して、何か失ってしまったものが多いように感じるTONちゃんなのである。

三社祭

今年の三社祭りは、5月14日(金)から16日(日)まで。

本社神輿が担ぎ出されてくるのは16日です。

浅草寺縁起によると、今から1380年程の昔、隅田川で漁労に精を出していた檜前浜成・竹成の二兄弟が魚網の中から一像を持ち帰り、土地の文化人である土師真仲知に一見を請うたところ、土師はこれは尊い聖観音像であり、自分も帰依する所の深い仏像であると二人の者にその功徳を諄々と説き、自邸に堂舎を構えててらとし、三人共々厚く聖観音像をお祀りするようになったという。
これが浅草寺の期限であり、後世この三人が浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ祭祀されるようになった。それは権現思想(仏が神の姿をかりて現れる神仏同体説)の流行しだした平安末期(約800年前)だろうといわれる。その後明治6年三社権現の名称は廃され、現在は浅草神社と呼ばれている。
その大祭の神輿渡御は江戸第一の荒祭りとして浅草人の血をわかせその賑わいは府外随一として全国に喧伝された。

また、現在の社殿は徳川三代将軍家光が慶安二年(1649)に建立寄進した、江戸初期の代表的権現造り建築で、幾多の災厄をのがれ、国の重要文化財に指定され、昭和38年と平成8年に多額の国費の補助を受け創立当時の姿に修復された。

と、三社祭りのしおりに書いてあった。

ところどころ修正したい部分が散見されむずむずしてくる。

江戸期まであれほどおおらかだった日本の宗教事情はどこへいってしまったんだろう。

明治の神仏分離令(廃仏毀釈)によって、狂ってしまった神社と寺の関係が修復されないかと願うのは決して少数意見ではないと思うのだ・・・

すっぽかす

朝のジョグに出かけてから、浅草寺の掃除会があったことに気づき、後の祭り第一号。

朝のメールをチェックし10時を過ぎて、手が離せなくなってから、靖国神社に行くのを忘れていたのに気がついて、後の祭り第二号。

さて・・・

二度あるということは・・・

なんだか両方とも月一の大事なセレモニーだっただけに、頭が月替わりしない感じで気持ちが悪い。

でも靖国に出かけなかったおかげで、大事な御用をすっぽかす不始末を犯さないで済んだし、朝の掃除に行かなかったおかげで、ゲゲゲの女房を観ることができたし・・・
と、これは筋違い。

明日は商店会の掃除の日。これはすっぽかすわけには行かないのだ。