モラル


これは捨てられたガムの跡である。
しかもまだ新鮮。まだ口に入れれば噛めるほど・・・するわけはないが!

紙にも巻いていないし、その量的なことを推察するに、板状のものではなく、ブロック状の小分けしたタイプのものであろうことは判別できる。

ということは、包装紙もついていない・・・

いやいやそうではないだろう。

噛み尽くしたカスを口からぺっと吐き出したに違いない。

我が店がある商店会の通りはつい最近、敷石を敷いて浅草寺参道としての面目を一新したばかりなのだ。


が、その工事を行っている真っ最中にも、敷かれたそばから、僅かな面積のまっさらな敷石の上にガムの吐き捨てが行われ、石工の職人を怒らせていた。

「やる気なくなっちまうよ!!」
この嘆きが聞こえるだろうか。

まだ、人も歩かせていない、まっさらな御影石の敷石上にである。
職人でなくとも腐らせるのには十分な材料である。

商店会では毎月第一日曜日の早朝に集まって道路の掃除をしている。
ゴミ一つなく清める。

夕方には、煙草の吸殻がちりとりいっぱいに拾えるほどになる。

草木の茂みには、缶やペットボトルコンビニの弁当がらが隠し捨てられるのも日常茶飯事。

日本国よ、どこまでモラルが下がればよいのだ。

じゃあゴミ箱を設置したいと思うことしばしばなのだ。

「止めたほうが良い」必ず帰ってくる答えなのである。

形見

お母様の形見と言うことでお直しさせていただいた。
ご本人の予想に反して、プラスチックではなく本物の珊瑚だった。
なk糸がテグス仕立だったからそう見えても仕方のないことだと思った。

直しということでは、思い出すことがある。

僕らの仏具業界で本当に全ての念珠の直し(製作)を可能とするお店は何件あるだろうか。
多くの店がお直し承りますと言っていても、自社内では直せず京都に出している。

昔、その本家本元が、手間のかかる修理をいやがり、切れた念珠は供養しましょうという戦略をとった時期がある。あながち間違ってはいないという気もしないでもないが、新しい念珠を買わせる手段としてこういう方法論をとることには、心底腹がたった。また、自分にはそういうことは言えないとも思った。

持ち主の心の問題にまで土足で入るような気がして。

持ち込まれるお客様が、心機一転新しい念珠を持ちたいとか、グレードアップしたいと思う上には何ら抵抗はない。
うちは、自分で直してしまうから、その戦略に乗ることもなく済ませることもできた。

だから、お炊き上げしてしまうということに対して、まったく逆の立場で臨んだ。

もらった念珠をどうしようかと迷っているお客様には親が子にどんな気持ちでお念珠を差し上げたのだろうか。
「そんな気持ちを大切にしてお直ししましょうよ」と。

新しい念珠は売れなかったけれど、気持ちはお客様に伝えられた。と思う。
親の思いを僅かながらも代わりに伝えられたのではないか。と思った。

お客様は、その念珠を親からもらったいきさつをそのつど教えてくれた。

おかげで何度涙を流すはめにあったことかわからない・・・
多くの思いの込められた物・・・いや。物を超越した心の象徴なのだと思った。

ぼくの考え方は正しかったと思った。

あとわずか


TON店長が会長をしている商店会(雷門一之宮商店会)の参道への道路改修工事も今週でいよいよ完了するめどがついた。

できてしまえば、ごく普通に通ってしまう道路なのだけれど、形にしていくことの難しさをいやというほど今回は身に沁みた。
娑婆世界に生きている以上、そんなことも幾度とあることなのだし、またとない経験をさせてもらったと楽しみながらいたいと思うのだ。

クレージーキャッツの歌に「お前の番だと声かけられて、どひゃっとするやっぁ女の子・・・♪」というのがあったが、いつもこの歌がいざと言う時耳に聞こえる。
女性蔑視などと野暮なことは言わないで欲しいが、いざと言う時でも「よし!」原をくくろうと思える潔い生き方をしたいと思っている。

どうせ一回の人生。その人生の中で経験することができてありがたいと思いたい。
どうせ彼岸に持っていけるのは地位でも名誉でももちろん財産でもないのだから。

ずいぶん大げさな話になってしまった。
でも簡単な工事だけれど、難しい工事だったことは正直なところなのだ。

旅の終わり

次男が旅から帰ってきた。

しかし足に使ったはずの自転車は旅先に置いたまま。

結局、彼らのグループは目的地を前にダウンしてしまったようだった。
あともうちょっとで目的地に到着できたのに・・・
夜の10時をまわっての峠越えは都会っ子には荷が重かったようだ。

「あと30kmあったんだもの・・・」

帰ってきた彼は言葉少なになっていた。

TON店長が一緒だったらリードしてやったのにな・・・と思いながらも、彼らが彼らながらの知恵で計画したのだから自分なりの責任を取ったということなんだ。

それなりにいい経験をしたんだと思う。

成功して達成感を持つことも経験。
失敗して悶々としたとしても、それは経験。

頭の中だけで勝った負けたとするよりは、一歩踏み出して悶々とした方がよほどよい。
立ち止まっていたのでは、何にももたらされないのだから。

立場替われば

次男坊が高校の友人たちと卒業旅行をしたいと言い出した。
しかも自転車で行くと言う。
TON店長のサイクリストとしての血を引いたかと、ほくそえんでいる場合ではない。

なぜなら、何度も驚きの壁を越えなければいけなかったからだ。

まず目的地。
房総半島一周、箱根、伊豆・・・とコロコロ変わった。
結局、富士吉田あたりとなったようだ。

友人あってのこと仕方ないにしても随分変わるねぇ。

「13日に出かけるよ」って言っていたのに、前日に突然出かけてしまった。
慌てた。

何時に行くのかと聞いたら、3時に待ち合わせていると言う。
夜中の3時ではない。
今の時期。日も陰ってくるから夕方と言ってもおかしくない午後3時である。
ここで二度目の驚き。

八王子で泊まるのだという。
たった・・・と言ってはなんだが100キロ強を二日がかりで行くという。
ふ~ん。第三の驚き。

やたら軽装でいるからちょっと心配して、地図は?と聞くと、
「友達が持っているから」
え!地図も工具も持たないという。はぐれたりパンクしたらどうする・・・第四の驚き。

携帯を持ちながらもいつも全く通じない次男の携帯電話。
数日前上さんにさんざん叱られ、今回は途中経過をメールで実況中継してくる。

新宿についたと4時に連絡して調布に着いたと8時に連絡してくる。
時速7キロに満たない速度。第五の驚き。

残りの距離から推定すると11時過ぎるな・・・
ドンピシャその時間に着いたと連絡してきた。

八王子を過ぎれば本格的な峠越えが待っているから、
さてさて目的地には何時に着くものやら・・・

僕の親もこんな思いをしたのかな。
ずいぶん無茶をしてきたからなぁ・・・

もすら

ザ・ピーナッツはやっぱりうまいなあ・・・

急に恋のフーガが聞きたくなった。頼みのユーチューブだ。
あれこれ聴いているうちにモスラの歌が聴きたくなった。

でこちら。

小学校時代の僕は怪獣映画ファン。
子供心にこの歌がやたらと切なくて、正義のモスラとあわせて大好きになったのを覚えている。

改めて調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%AD%8C

詩を調べてみた。
全然耳では追いつけない歌詞。
モスラ~~やモスラ、どなたかにやインド娘・・・てな具合で子供時代には歌っていたのだ。そう聞こえてしまうし耳に残らないのだからしかたがない。

ネットとは何とありがたいことか。

ちゃんと歌詞まで教えてくれる。

以下の通りなのだ。

モスラヤ モスラ
 ドゥンガン カサクヤン インドゥムゥ
 ルスト ウィラードア ハンバ ハンバムヤン
 ランダ バンウンラダン トゥンジュカンラー カサクヤーンム

これを訳すと、
モスラよ 永遠の生命 モスラよ 悲しき下僕の祈りに応えて 今こそ 蘇れ モスラよ 力強き生命を得て 我らを守れ 平和を守れ 平和こそは 永遠に続く 繁栄の道と言うことなのだそうだ。

実はこの摩訶不思議な詩は日本人の詩をインドネシア語で訳していたのだそうだ。
露とも知らなんだ。

覚えられないのも無理はないよなあ・・・

作曲は「長崎の鐘」や「君の名は」、札幌オリンピックのテーマ曲を作曲した、古関裕而氏の作というのも実に驚いた。

あぁ。
しばらくモスラ~~やにかぶれるかもしれない。

勝って兜

学生時代に後悔していることがある。(山ほどね)
他から見ればたわいもないことかも知れないけれど、TON店長にはそう些細なことでもない。

中学時代は剣道部に在籍していた。

入学早々、担任の先生はどうしたことかクラス全員に順番で「おまえは何部に入るのだ?」と言わせたのだ。

まったくクラブ活動など頭になかった僕は、自分の番が来たときにはたと困って、どうしたものの弾みか「剣道部に入ります」と答えてしまった。

横浜有数の不良中学だった当時の母校では身を守る術をそこに求めたとはちょっと言いがたいが、まんざら全く見当違いではもなかったかも知れない。

小学校のとき1500mのマラソンの授業で工程のど真ん中でゲロゲロとやってしまったほど虚弱体質な僕が果たして剣道部など持つのだろうか、自分の口はもののけに支配されたのかと思うほど後悔した。

運動部など全く想像すらできなかった家族の不安を一身に背負いクラブに通いだした。
案の定、第一日目は、15分も歩けば帰宅できる中学からの道のりを2時間近くかけて帰った。

半歩歩けば立ち止まり、半歩歩けば座り込み、よく帰ってこれたものだと思う。
そんな出だしがうそのように一年後には、そんきょで校庭何週っといった無謀な命令にも絶えられる体ができていた。

そんなおり、前々から何かと言えばつっかっかってくる部活仲間のH君と試合をする羽目になった。審判を買って出たのはH君の小学校からの先輩各にあたるSさんという人だった。

同門相打つ勝負を止めることもないまま、試合という名目の果し合いとなった。
H先輩は、筋のよいH君の勝利を確信していた。

かぶった火の子は祓わねばならぬ・・・心を固めた。

面をかぶって竹刀をあわせた。
頭が真っ白になった。

何故ならば・・・
面をつけたのはそのときが初めてだったのだ。
H君は筋がよいということで先輩から認められ数ヶ月先に面をつけることを許されていた。

こりゃ僕を負かすのは、赤子の手をひねるより簡単なことだった。

が、どうしたことか奇跡が起きた。

相手の動きがスローに見える。
しかも体全体はぼやけているのに、小手だ、胴だ、と隙がはっきり見える。
どうぞ打ってくださいとばかりに打つ場所を示してくれている。

小手と胴を打って、短時間で勝負はついた。
相手はがっくりうなだれた。

僕はと言えば、信じられない展開に度肝を抜かれた。
われに返った時、自分の力で勝ったわけでもないのに、勝つとはこんなものかと舐めた。

そして有頂天になった。

半年近くクラブから遠ざかった。

そんな僕を見かねて、竜馬の乙女姉さんのような姉に促されながら、クラブに戻ることなった。
敵もさるもので、待ってましたとばかりに、いの一番に指名し、僕はぼこぼこに打たれ続けた。
もちろんH君にである。

それ以来、二度と道場に足を踏み入れることはなかった。

勝って兜の緒を締めよとは、まさに自分のことを差しているのだと、めっぽう痛い教訓を学ばせてもらえた中学時代だった。

あそこで天狗にならなかったら・・・
ぼこぼこにされても仕方ないじゃん。休んでいたのだから。自分が悪い。彼はあの後、頑張ったんだ。と謙虚に忍耐強く練習を続けていたら・・・

歴史にも自分史にも「if」はあってはならないとわかっていても、時々頭に浮かんでくるTON店長なのであった。

お客さんのN君と話しながら、このことが頭によぎった。が、口には出せなかった。
ある一線まで忍耐することは必要なんだよね。

ばっかじゃない

春のゴールデンウィーク、秋のシルバーウィークを地域ごとに分散する法案が浮上しているそうな。

今の連休の状況は、観光地へのアクセスが集中しすぎて、せっかくの休日が渋滞で大変だからだとか・・・
迎える宿泊施設や観光地側も断らなければならないほどの事態が生じるからと言う理由らしい。

夫婦別姓法案等も含めて、民○党の考える事って、日本人のアイデンティティーをぶっ壊すことが目的なの?

って???が次から次に生まれてくる。

国民の休日の意味合いがわからず(ちゃんとおせーてないもん)単なる休暇、お休みと考えるむきも中にはあろうと思う。

が、どうであろうか。

休みたいなら自分で好きなだけ有給を取ればよいのであって、わざわざ法律上で国民の休日にする必要がどこにあるの。

しかも地域ごとに、北海道は5月の第一週、東北は5月の第二週、関東は・・・
だという。

そのうち正月休みも1月の第一週は北海道、1月の第二週は東北・・・
お盆休みも8月の第一週は北海道、8月の第二週は東北・・・
となりかねないぞ。

その日にちに意味があるのであって、記念日としたより内在している精神的な意味あいを知らしめる役目が国にはあると思うのだ。
単なるおやすみ欲しさの休日では実は恐ろしいわなが待ち構えているのだ。
民族としてのアイデンティティーを失うという落とし穴。

自○党の政権下であったけれど、成人式や体育の日やその日にちに意味を持つのに・・・
休みを増やす為に第何曜日の月曜日だのと変動するようになってしまった。

例えば成人の日を例にとれば、1月15日としたのは、この日が小正月であり、かつて元服の儀が小正月に行われていたことによるのであって、大人の仲間入りを果たす歴史的な日にちだった。

(そういう意味では三社祭りも人が集まりやすいように土日に移動した。3月18日がもともと観音示現にまつわる火なのに・・・後の人の勝手で変更してしまうことは、同じような事である)人が人の都合で運用してはいけない事だってあると思うのだ。

休日にするほどの大切な日にちって何だろうってちゃんと教えなきゃいけないし、伝えなきゃいけないんだと思うよ。

今年の結婚記念日は忙しいから第4週の何日ね。
やあ今年の誕生日は、お父さんの都合で3週の月曜日にしよう。
なんてなったら、それこそ夫婦喧嘩、家族からの総スカンを食うのが落ちだろう。

ふざけんじゃないって。

休みを取らせたいなら、「国民の休日」という名称で充分。
この場合の意味なんてない。休みにしたいからでいい。

この法案は観光庁案という。なら、文化庁は日本の文化を守る上で絶対反対と唱えるべしと思うTON店長なのだ。

嵐の後の静けさ

過ぎてしまえば、あのお祭り騒ぎも、喧騒さも何処へやら。
東京マラソンも終って3日も経っていたのだ・・・

走る人たちはもう次の大会に心は向いてしまって、もうここにあらずだろう。

マラソン終了直後にスポーツウーマンぽい都のスポーツ課の方が、状況調査方々顔を見せてくれた。

そして今日、
「ご迷惑をおかけしました」と大会関係者が挨拶にこられた。

「今年はいかがでしたか」と心配そうな面持ちだったけれど、規制線を張られなかったことで何とか助かりましたと述べると、ホッとして帰られた。

本当は普段の売り上げの半分にも満たなかったのだけれど、野暮なことは言いっこなしにしたかっただけなのだ。
あちこちで苦情を聞く立場も辛いよね。

フー・・・
これでやっと嵐が終った・・・。

当日はこんな地図があちこちで配られました。もっと抜け道あるのにね。
でも効果は絶大だったろうし、何より道を尋ねれるという安心感が何よりだったと思うのだが。
今度はぜひ二色刷りにして抜け道をもっと書き込んで欲しいな。

感動

つまらないことだけど・・・

人様に話すほどのことではないけれど・・・

レジのお金とふと目があった。
(お金のどれが目だと突っ込まれそうだけど・・・)

とにかくあってしまったのだ。しかたないジャン。

ビタ銭(江戸時代までの通貨で違法鋳造を繰り返していくうちに小さくなった硬貨のこと)かと思って手に取った。

製造年月日、昭和28年。
もちろん縁はギザ有りの硬貨。

その隣に同じく平成21年生まれのピカピカの10円玉が。

手にとって比べてみた。

横から見たら?

あんれ~僅かに小さい。

薄い。

模様も潰れてしまって細かいディテールは訳がわからない。
やたらと大きく見える。玩具みたい・・・

28年っていうとぉ・・・
1953年だからぁ・・・
2010年から引くとぉ・・・

お!お!お!

感動した!
今年57歳じゃん。

姉と同じ年齢だった・・・