仏壇があぶない

成人式を15日でなくした人間出てこーい。

なんだかメリハリがなくなって仕方がない。

もともと1月15日に成人式を当てたのには訳があるのである。

休日を増やす為に日曜日と重なった場合、
月曜を振り替え休日として変えるのはまだしも、
民衆に媚びて、曜日に合わせて記念日を変更する愚挙。
飛び石連休のところを、経済効率優先の意識から連休にさせたりと。

さらに、ついでに言わせてもらえば、
昭和32年の住居表示の変更で歴史ある町名が消えて久しいが、
平成の大合併などという愚挙に消えていく美しい都市名
これらの行動を見ると不思議でならない。

日本人の無形遺産がこともなげに崩されていく。
過去の遺産を大切にしない民族がどこにいるのだろうか。

合理化、経済効率の美名がなにより優先されてきたのは、
敗戦で国を復興するための図らずもの姿ではなかったのだろうか。

そろそろ見直しの時期にはいってもよいではないか。

最近、仏壇が危うい。
少なくともマンションに引っ越すときが仏壇の消える記念日になりかねない。
仏壇を買い替えのときに古い仏壇を引取り供養する。
けれど、買い替えでなく、引取りだけを相談に来られる方も多くなってきた。

マンションに住むが、床の間がない。造りつけの仏間がない。
少子化で子供が嫁に出れば、継ぐものがいない。
一軒家からマンションに越すときに大きい仏壇は居場所がない。
だから、小さくしたい、家具調にしたいはまだしも
クローゼットに位牌だけ納めるようにする等々
以前には数えるほどしかなかった相談件数が、明らかに増えた。

仏壇は文化の結晶だ。
しかも信仰心を軸にした生活と慰霊のエキスでもある。

しかし、先祖を大事にしたい気持ちがあっても、
明らかに住居環境や家族環境が変化してそれを拒んでいる。
縦の糸が繋がらないまま横の糸は組めないのである。

ましてや売る側にそれを伝える心を見失い、
安かろう悪かろうを実践している者もいる。
箱売り屋に貶めている業者もいるのは嘆かわしいことでもある。

いいやいいやで済ませるにも、ほとほと限度があるというものだ。

そろそろ、足元を固め直す時期なのだと思う。

国力とは、そんな所から失われていくんじゃあないだろうか。

めがね、それから

ついに近所の意を決して眼鏡屋に足を運ぶことにした。
浅草に移り住んだ当時は、近所に仲の良い眼鏡屋があった。
しかし、この不況で店を閉じてしまった。

ご夫婦で経営していて、ご主人も、奥さんも丁寧な客扱いで、
すこぶる気持ちのよい店だったのに…社会の荒波は、容赦なく
僕のオアシスを飲み込んでしまった。

しかたなく吾妻橋を渡ってその主人から紹介されていた店に顔を出した。
実はこれで二度目の訪問なのだが、日替わりで担当者が替わるらしく、
僕の顔までは覚えていてはくれない。

まずは検眼から。
これが子供の頃からいやでいやでしかたがなかった。

僕の目はちょっと特殊で、視神経発達異常つまり弱視というやつなのだ。
プラス乱視付き。だから、右だ左だと答えるのが今でも苦痛でならない。

右目は矯正しても0.3以上は視力が出ない。
見えると言っても、像がボヤーと動く程度。しかもチカチカしていて見づらい。
ただし、それは右目だけで、左目は健常者と同じなものだから、
左目だけでどうしても見てしまう。

そのために、小学校に上がるまで、
目の悪いことは本人ですら気付かなかったのである。

入学時の健康診断で再検査を指摘された母は、うろたえた。
両目2.0の母には想像だにつかなかったことだった。

当時の小学校で眼鏡をかけた子供は珍しく、どうしても注目を浴びる。
元来そっと暮らしたい性格の僕には耐えられなかった。

眼鏡を家に置き忘れたふりをして、逃げるように学校に行った。

そのうち念を押され、渋々、眼鏡をかけて出かけた。
けれど、登校の途中ではずした。

左右の視力のバランスが極端に悪いから、
レンズは左右極端に違う。

言うならば合わせレンズの牛乳瓶の底の右目と平ガラスの左目。
他の人が見ると目の大きさも左右でふた周りは違って見える。

眼鏡をかけると、意識せずに地球がまあるく見える。
異様な世界が映し出される。

そのアンバランスを、脳ミソがバランスをとって
普通に見えるように調整する。
かなり無理があるから、頭痛は持病のひとつである。

弱視の眼鏡は高価であった。当時でも3~4万はした。

しかし、どこかに忘れた振りをする。
友達との喧嘩で壊される。
(だから眼鏡をはずすときは暴れることにしていた)
そして無くしてくる。友人に隠されてそのままなくなる。

そのたびに、眼鏡を新調させた。
母親は文句一つ言わなかった。
母子家庭の我が家では家計の苦しいことは子供心にも解っていた。
夕食一人100円の時代、なぜ無くしたことを責めないのか、
小言を言わないのだろうかと不思議だった。

あとで知った。
弱視の原因は、僕が母親の胎にいたときの栄養不足と
医者に告げられたこと。
そして小学校入学時まで親として気付いてあげれなかったこと。
自戒となって母の言葉を制したのだ。

眼鏡は煩わしくも生涯の友になってしまったが、
同時に親の心を忘れさせないキーワードともなった。

観音

うちに来ていただいた方はお目に触れていると思うけれど
わが店の神寄る場である(ちょっと大げさか)。
まあ要するに床の間ということである。

暮れに一年の埃を払い一所懸命、拭き掃除をした後、
軸を架け替え、九谷焼の五重塔を建て、松を活けた。
一月中はこのスタイルでいこうと思う。

すると、
福島のS師より三大名文と言われる蓮如聖人の「白骨の御文」を頂戴した。
(昔、初めて目にしたとき、不覚にも思わず涙腺からこぼしたのに気づかぬほど感動したことがあった。山家学生式と白骨の御文は今でも心が熱くなる)
そして、千両箱が舞い込んだ。

まあ…春から縁起がよい程度は感じてもよいかと思うのだ。

この軸は、仲良しのシンガポールのお坊さんH師の手による。
経典の言に従って、自らの血を絞りそれを墨とし、筆書きされたものだ。
聞けば、「え!」っと平和日本の仏教徒は思うが、何にも驚くことではない。

平然と、そうですかと中庸の心で、心を受け止めればよいのかな。

心のある方に縁があったらいいなと思う。

ハピバースディトゥあかちゃん♪

お客様は少なかったけれど、実に豊かな一日だった。

昼過ぎに来店された若者にとくとくと貴重な説教を頂いた。
過去に神社仏閣でお守りと思い、せっせと腕輪念珠を買い求めた。
親や親戚にもよかれと買い求めた。
けれど、一年もすると切れた。

人にあげた念珠も切れた。
これでは手につけたいけど付けられない。あげたことがマイナスに出た。
買った寺にクレームを入れた。「製造元に行ってくれ」と卸し元を教えられた。
今度はそこにクレームを入れた。
すると、「切れることはあたりまえのこと」
とけんもほろろだった。

何でゴムを改良する努力をしないのか。
この業界は、おかしい。

僕は、その言葉を単に構造上だけのクレームとは思えなかった。
聞くと、人一倍熱心に仏教を勉強している子だった。
人の性善説をなんとか立証したいと、我知らずに求めているように感じた。
その期待に応えてくれなかった心の痛みも含まれている気がした。

少なくとも、仏教の枠の中にいる者である以上、
それに応える義務があろう。

ぼくも彼の立場だったら同じことをしたかもしれない。
と、思いながら小一時間ズーっと立ったまま聞いていた。

業界を代表するつもりはないけれど、憤懣やるかたないその思いは、
確かに当を得ていた。
「クレームは前進の糧」となるところ、糧をことごとくこぼしてきた同業界。
何百円、千円そこそこの念珠。しかも、仕入れ商品なのにそこまでかまってられないくらいに捉えた寺院側。
僕も憤懣やるかたない気持ちになっていた。

笑顔を見せて帰られたが、求めに応じる態度の大切さを教えられた。

産休に入る子がいて帰る直前にささやかなおめでた会。

お腹の子の誕生日かな。
だからお母さんは二の次なのだ。

お客様が数人おられたが、一緒に祝福してもらおうなどと思いながら…
「ハピバースデイトゥあかちゃん」で送り出した。

めがね

ついに逝ってしまった。
あ~~ぁ。惜しい奴を・・・

しかも正月早々…

老眼鏡君。

突然目が眩んだ。
左右の目のバランスが一瞬にして崩れた。
どこか頭の血管が切れたのかと思ったほどだ。

二本の指でメガネの上から左右そーっと当ててみる。

ない。ないない。

あるはずのレンズがそこにない。しかも右側だけ。

そして、フレームが見事ポッキリと折れていて、情けなくぶらぶらしているのが解った。

嗚呼、思えば十数年間、極限の使用によくぞ耐えてくれた。

あるときは布団に巻き込まれ、あるときは洗濯機の渦にもまれ
あるときは尻の下に、足の下に、原型を留めないほどに変形しながらも
よく僕についてきてくれた。

そして・・・

ついにその日はやってきた。突然。

平成20年1月8日午後12時30分 
原点回帰の20年。敏の初めの1月。末広がりの八日

再出発にはとても数字並びの良いこの日が、君を送る日になろうとは…
でも天寿を全うしたと思う。多少の酷使はあったかもしれないが…

メガネに天国があるとしたら、きっとそこの住人になるだろう。
できるなら今一度復活を遂げて欲しい。
が無理は言わない。

主人をサポートし続けた君に感謝の言葉を送りたい。

映し身

ぼくはどちらだろう。

ここまで足は短くないか・・・

こんな可愛くないか・・・

日常・非日常

店を始めた当初は、右も左もなーんにもわからないから、
それこそありとあらゆることをやった。

当時(25年前)の浅草には67軒の仏具屋がひしめき合っていたが、
それぞれパトロン(寺など)がいて、きれいに棲み分けされていた。
それぞれが力関係を保って、食べるには困らない状態を創出していたのだと思う。

そんな中に若気の至りとはいえ、仏壇店を始めた。
とにかく何でも試さないと食ってもいけない状況もあったけれど、
それ以上に、面白くて仕方がないというのが本音だった。

上野ー浅草間の仏壇通りを歩くのがたまらなく楽しくて、
隅から隅まで残すことなくお客の立場で覗いて回った。
そのうち同業者とわかって怒鳴られもした。

台東区内にある350ヶ寺にもコツコツ歩いて回った。
東京近郊の3000ヶ寺に毎月のように手書きのDMを送り続けた。

店に顔を出して下さったお客様がいようものなら、お礼の手紙、誕生日、四季の手紙と書きまくり、年末には車で回ってカレンダーとラブレターを渡しに行った。それほどに売れ先が少なかったこともあったけれど、暗中模索であったことが一番の理由だった。

正月は、仏壇屋が正月に店を開ける習慣がなかった。どこも三が日は店を閉めた。
僕は仏壇の扉を閉めて店を開けた。

店員には、休みを与えるから、全て臨時雇いの子たちで固める。
臨時の子が仏壇を売れるほど甘くはない。
だから、出来る商売は何かと考えた。
食べ物屋をやってみることにした。
そこ素人でも簡単にできるだろうと、
甘酒を売ることにした。

これが飛ぶように売れた。
おしるこも売った。そのうち抹茶も売った。

余った甘酒は知り合いのいる地元の養老院に差上げた。
予想以上に喜んでいただいた。
喜んでいただくことに気を良くして、次の年からは除夜の鐘の前に持って行った。

正月中にテーブルの上に置いておいた記念帳には、
感謝の気持ちがつづられていた。
正月三が日で大学ノート3冊になった。
一日が終るとその住所に毎日せっせと手紙を書いた。

その時の若いお客さんたちが、Uターンして買い物客に変身した。

食べ物屋って面白いと味をしめて4シーズン続けた。

正月が終わると、また仏壇の扉を開く。

日頃の社員が顔を出す。
とたんに現実の世界に引き戻された。

正月が終われば人の足も減る。だからなおさら現実味を増す。

今は正月も平常営業なのだ。企画も打たなくなった。
ここ最近は、そのせいなのか、いつも現実の中から抜け出す機会が乏しい。

非日常がなくなった感がある。

今度は何に非日常を求めようか・・・。

サプライズ

正月に店を開けていると人の出会いのサプライズが起こる。

何十年も会っていなかった友人と、それとは知らず?来店してきて店で再会したり、
ふる~い時代のお得意さんがひょこっと顔を出してくれたり、
親に手を引いてこられていたヨチヨチ歩きの子供が、成人したと報告に来てくれたり、

そのたびに驚かされるのだ。

昨日、唯一人の姪がひょっこり訪ねてくれた。
彼女が生まれたときには、ぼくはもう風来坊になっていたから、
直接お産には立ち会えなかったし(長男の時は義兄の代わりに立ち会ってあまりりの修羅場に驚いて逃げて帰ってきた)、
人生の節目節目に何一つ叔父らしいことをしてあげてこれなかった。
けれど、一番なついてくれていた。

一度だけ、小学校に入学するとき、なけなしのお金で
電気スタンドを買って送ったことがあった。
それがよほど嬉しかったのだろう、喜んで電話をしてきてくれた。

僕が結婚するときも、一番喜んでくれたのは彼女だった
「みっちゃん(僕をそう呼んでいた)のお嫁さん」と
僕ら夫婦の周りをクルクル、クルクル回って喜んでくれた。

必要以上に感受性の強い所は、姉に似てしまったようで、
思春期は悩みの中にいた。いつも物思いにふけていた。
そんなころの中学時代は、僕の店でバイトをしていた。
だから毎年正月は顔を見せてくれた。

そのうち大学を出ると足は遠のいた。
保育士の資格を取り、区の施設に働き出した。

それから4年の間をおいて、突然昨日顔を出したのだ。

「こんど結婚するの」と彼を連れてきた。
面食らって言葉に窮した。
「ん。あっそうなの」笑顔で応えたつもり…
同じ保育士の仕事をしているという彼はなかなかの好青年。

これからもよろしくね。と彼と握手をして見送ったが、本当の所は動揺しているのだ。

男ばかりの我が家では、送り出す娘がいない。
さすれば、嫁に出す思いの何分の一かを、疑似体験させてもらったのかもしれない。

幸せになれよ。

初夢

初夢を見た。

念珠直しを一生懸命やっていた。

あ~~~ぁ。仕事の夢かぁ。

元旦の一日

店の前は、人でいっぱい。

車道は、人でいっぱい。

空は、空気いっぱい。

こうして、元旦の一日は終わる。

ついでに、店は、正月いっぱい。