二天門通り

二天門通り浅草寺に向かうこの参道は、戦後変化した。

特にこの通りは顕著なのではないだろうか。
都電の電停もこの入り口にあって乗降客に利していた。
戦時中に商店街全てに疎開命令が下り、
通りは一変したようだ。

二天門まで百数十メートルの参道ながら、
今は観光バスの常駐するような閑散とした通りとなってしまった。

昔は土産物屋が軒を並べ、参拝客の滞在を促していたであろうに。

最近の話題は、この通り右手に、新東京タワーが誘致されるはずだった。
残念ながら墨田区に譲りはしたものの再考が望まれる。

すずらん灯も時代を感じさせる。
若い人にはかえって新鮮に見えるかもしれない。

未だに参道入り口を示し続けているところが、
胸にキュンとくる。

柱部分に「昭和三十三年再建」とある。
僕が3歳の時に再建か…

この年に空襲で消失した、本堂が再建された。
それにあわせて再建されたのだろう。


人工石の表面のコンクリートは洗い剥がされ、
時の経過をしっかり伝えてくれる。

ややもすれば、気づかないで通り過ぎてしまうだろう。
この通りが、川岸から石畳で二天門まで整備されたらいい
プロムナードになるだろうに・・・

と思うのは僕だけではないだろう。

サンバ

浅草サンバカーニバルも今年27回を迎える。
すぐに消えちゃうかと思っていたが、
歳を追うごとに盛大になってきたようだ。

もともとは、パーカッションや太鼓の響きは、
大好きなBooなのでありますが、何でここ浅草でサンバなの?
と不思議でならなかった。

NHKで放送された「世界遺産」の番組を見て、
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr083.html
認識を少し変えさせられた。

番組は、世界遺産、サルバドールを舞台に
サンバカーニバルをレポートしていた。

16世紀に始まったポルトガルによるサルバドールへの奴隷の入植。
アフリカでは部族が異なると、神も言葉も違うのだそうだ。
奴隷として連れてこられた、この新大陸にあって、
営まれ続けた部族を超えた神への儀式がひそかに続けられた。

そこでは部族も言葉の違いも神の違いも全て超越し
強い連帯が生まれていった。
ニューファミリーの形成だった。

そのとき刻まれるリズム。
それがサンバの原型なのだそうだ。
悲しい文化ではある。
同時に現状を受け入れ明日にどう希望をつなぐかの
力強さも併せもっていると感じた。

土着の信仰から、キリスト教への改宗が進んでも
そのリズムを捨てることはなかったという。
逆にミサの中にそのリズムがつながれていった。

いつかキリスト教と結びつき、今に伝わったというのだ。

リズムの中から他人同士でも一家族となる。
というのが根底にある。

そんな深層部分があったのか・・・。

あ!なるほど。
信仰の町浅草、
日本中、世界中から人の集まる浅草で
カーニバルが行われる意味が少しばかり理解できた。

http://www.asakusa-samba.jp/index.htm

お嫁入り

横浜に住むお客様のO様からお礼のメールと
お嫁入りした姿を見て下さいと写真が送られてきた。

まだ、嫁入りしたばかりの新鮮さがのこり、
ちょこんと仏前に置かれていた。

不思議な感覚だ。

はやく、馴染んで欲しい。