わがまま

種字(梵字)曼荼羅が手に入った。
ようやくと言って良いのか、気に入ったものがなかなか見つからなかった。
前に作って欲しいと依頼したものは、
紺地にむらが出ていた。
「印刷だからしかたない」の一点張りで前に進まない。
じゃあ紺紙に金泥で書いてくれと、全くの予算オ-バーになってしまうが
うちを信頼してくれて依頼してくださったお客様を裏切るわけにいかない。
依頼額の数倍になってしまうほどの赤字を覚悟でお願いするが、
書家の梵字見本を待てど暮らせど送ってこない。
堪らず電話をしてみると、「出せません」
「そんなに細かいこといわれるのでは、当方では困難です」
辞退されてしまった。
一度引き受けていながら…僕が連絡とらなかったらうやむやにしたかったのだろうか。
かんぐってしまった。

で、暗礁に乗り上げてしまったのだ。
懇意にしている梵字の大家にお願いすれば話は早いが、折り合わないだろうし、時間もかかるだろう。

実はこんな経験は、しょっちゅうなのだ。
まず自分が気に入らないとだめなのだ。
これはどうしようもない。だから製作側が職人意識が高い人としか長続きしない。
採算だけで仕事をするところ、聞く耳を持たない職人、
呼吸があう、合わないとはよく言ったものだ。
そう考えてみると、僕の周りには、よい縁で結ばれているものだと感心させられるのだ。
だって、視点を変えて客観的に自分のしていることを見たらわがままだもの。
それに付き合わされる職人は堪ったものじゃあないだろう。
それは、わかるのだ。

だけれど、納得いかないものを、施主さんに手渡すわけにいかないじゃん。
後々まで後悔してしまう。

だからまた、わがままを通すことになるだろう。
付き合ってね職人さん。

表装まで全てかけさせ

新商品と言うのか・・・

「勾玉を利用して根付を作ってみようか」

と言う声に応えてみた結果、こんな感じにできました。
勾玉を選んで、
これがまたきれいな石があったので、よけい仕上がりに影響しました。


ね!きれいでしょ!

また、紐の組み合わせ方でこうも違うものかと驚きます。

念珠製作の応用です。

逆輸入

国内の無理解に嫌気をさして海外に活路を求める芸術家。
そして技術者たち。
昔から後を絶たない。

出る釘は打たれる。
一定以上の特出したことは望まない風土。
処世術として友好に働く場合もないとはいえないのも確か。
ただし一度公で認められてしまうと、空気はがらっと変わる。
鬼畜米英が闇雲に親米へ
安保闘争に眉をひそめていた大人たちは何処へ?
性の解放はどこまで若年化するの?
価値観はひっくり返ってきた。

だいぶ前、小学校に通うわが子の教科書を見て腰を抜かした。
書道は書写といい、自然と情緒を育ませてくれる唱歌の激減していて、
若かりし頃、好きだった反体制ソングやら
ニューミュージックが課題曲として顔を見せていた。

形ばかりの歴史の羅列・・・

いったいこの教科書は何人(なにじん)を育てようとしているのだろう。

欧米か?

むしろ欧米人が日本の文化に惹かれて、
バックパッカーよろしく世界から訪ねてきている時代。

日本人は何を伝えられると言うのだろうか。

戦前の日本人の貧しいけれど心の豊かさに胸を打った外国人は多いという。

ご先祖が培ってきた日本人の心象を今の教育で、
どう受け継いでいけるのだろうか。

唱歌が小学校の音楽の教科書から激減し
日本の美しさ、日本の歴史の誇りを日本人が見失っている。

海外でさかんに取り入れられていく日本文化。
気付かんかなあ教育委員会。

SCORPIONSのこの一曲。

アルバイト

ぼくが始めてアルバイトに手をだしたのが小6の夏休み。
新聞配達だった。
いざ給料日になると当初の約束と異なり、
働き口を紹介してくれた配達員に賃金を中抜きされ、
「田舎に帰りたいからちょっと待って」なんて
今考えると信じられない理由で給料の遅配までされた。

金で人は豹変するものだと骨身に沁みた。

次が、中3の夏休み。
1969年7月20日に面接を受けに行った。
何故詳しく覚ええているかと言うと、アポロ11号の月面着陸の日だったからだ。
面接を受けた社長室のテレビに映る月面の映像が気になって
何を答えたか全く覚えていない。

大阪万博の記念メダルセットが欲しくて働いた。
一ヶ月、蒸し暑いはかり工場で錆落としをしていた。
真夏の工場のつらさをとことん身に沁みるが、工場内の技術者にはすこぶる可愛がられ、一杯飲み屋にしょっちゅう誘われる。

その次が高校1年の春から、毎日曜日建設現場でサッシ清掃をした。
北海道一人旅の軍資金のために働いた。
奄美大島出身の社長にすこぶる可愛がられたが、ぼくの神をも恐れぬ失態で、責任辞任し、苦い思い出となった。

思い出してみると、親に反対され隠れてバイトをし、悲しい結果に終わったこともあったが、今にして思うとそれなりに有益だったように思う。

昨日、長男が初めてアルバイトに出かけた。
プッシュしないと何のアクションも起こさないポーちゃんなので、いつも母親の雷を一身に受けている。

それが、高校の卒業旅行の軍資金ためようやく重い腰を上げた。

初日、帰ってきて「どうだった?」と聞くと
「戦力になるって言われたよ」
軽作業と聞いていたが、靴の入ったダンボールを持ち運ぶ作業のようで、結構重労働のようだ。
剥けそうになっている手を見せながらも、にこにこ顔。
どうやら何とかなりそうかな。

夕食の手伝いをさせようとすると、
「筋肉痛だあ」
早速動かない。

「それはそれ、これはこれだろう」とぼく。

まあしばらくは、我慢するとしよう。

写真展

浅草寺に出かけた帰り、公会堂前を通ると、
東京大空襲の資料展を開催していた。


数年前に一度覘いて見たことがあった。
当時は公会堂が改修される前であり、
見た目にもきれいな会場とは言えない狭い部屋に押し込められて
独特な雰囲気がただよっていた記憶がある。
今年は、広い会場を独占使用しているほど規模が拡大していた。

ちょうど昨夜、石川氏のドキュメントをテレビで見ていたこともあって
誘われるまま入館してみた。

日中戦争から太平洋戦争までの経過を入り口付近に展示されていた。

南京大虐殺云々の新聞記事まで説明していたのには、少々驚く。

展示写真の一枚、松屋屋上からのパノラマ
ランドマークがなければ比較できない。

住み慣れている町だけに、感じるところ大。

写真点数が多くて
悲惨さを伝えるには成功しているように見えた。

三月十日ひとまわり

駒形橋から上流を望む。

キリンビールのモニュメントに対比して、その足元に位置して
その碑はある。

関東大震災の子供たちの殉難者をまつったものだが
今日は、花で埋まっていた。

東武線橋梁の向うに浅草の対岸が見える。

墨田区側から言問橋を望む。
この川面が人で埋まったというのだから・・・

言問橋のしみは人のしみと言うのだけれど・・・

考えられないことだがそうらしい。

仮埋葬された言問橋際には慰霊碑がひっそり建っている。
普段は・・・この日でも気付く人がどれだけいるだろうか。

ぼくは、この際に住んでいたから、子供を連れてよく来ていたが
地元の人でも、この空襲殉難者の碑を知るひとは少ない。

東京大空襲

ここ浅草に住んでいると、戦争の遺構や物語に出くわす機会がめっぽう多い。
華やかな町であるから、対極にある悲しみがなおいっそう特出するのかもしれない。

毎月初めの朝、浅草寺の掃除を慣行としているが、
掃き清められた境内にたつと銀杏の木には今なお空襲の爪あとが色濃く残る。

桜の名所の墨田公園沿いもさばききれない焼死体を仮埋設した。
乱痴気騒ぎの足元にそうした歴史があったことなどどこ吹く風。
片隅にそっと大空襲殉難者の碑を見つけて欲しい。

言問橋はさらに著しく被害の多かった場所。
焼死された人の跡が長らく残ったという。

つい最近ポーランド帰りのSさんの話を聞いたばかり。

決して許さないポーランド人の戦争への姿との違いに、
複雑な思いでここしばらくは過ごすことになるだろう。

http://www1.ocn.ne.jp/~susuma/bombing/bomb.htm