早いもので、
父親が逝った歳に近づいてきた。
3つになったばかりの秋に逝ってしまった父親の面影は、
おぼろげにも覚えていない。
父親がかわいそうにも思うくらい、
脳みその海馬の奥底にしまいこまれて、
記憶には全くない。
「片親じゃ大変な時代ね」と思うのは、
当時を生きた母と同年輩の人の話し。
それは育ててくれた側の話しであって、
子供の側は、いたって現状を受け止めていた。
ありのままに生きているものである。
なまじっか記憶の断片があると、
感傷に発展する種となったであろうから、
記憶が全くなかったというのはある意味、
幸いしたと思う。
都内のY大学を昭和初期に卒業し、
大学に残ることを勧められながらも 、
野心家の父は企業家の道を進んだ。
結果は事業は見事に大成功を収めたが、
補佐役の身内の裏切りと、
元来の人の良さと気風のよさは、
多くの負債を背負い込む結果となった。
惨憺たるものだったようだ。
結果、会社をたたむこととなった。
母と出会う頃は、過去の栄光の残光に照らされる中での
出会いだったようで、
程なく無職の生活を余儀なくされたようだ。
その直後、僕は生を受け、
バトンタッチするかのように父は彼岸に逝った。
「父の轍は踏んではいけない」
そう薫陶を受けながら育ち、
経済とはかけ離れた技術屋の道を選んだ。
はずなのだけれど・・・
気づくと、父の背中を追いかけている。
「親はなくとも子は育つ」とは、
よく言ったものだ。
父の失敗を繰り返させまいと、
注意注意しながら、育てられながらも、
父の轍(わだち)をきっちり踏んでいるのだから。
たとえ、口で教え込まれずとも、生を与えられた「動機」は、
きっと母の胎のなかで醸造され、
言葉ではない形を持って受け継がれていたのだろう。
しっかりと心に組み入れられているように感じる。
おかげで、人の良さと、義憤を感じる心は
どうしようもできないほどあるようで
生涯、貧乏道からは、はずれそうもない。
何度、大口のお客様であっても、
理不尽を目の前に見せられてぶつかってきただろう…
不誠実には耐えられないようにできているようだ。
でもしかたないと諦めている。
損得では動けないのだから。
自分が彼岸に渡ったとき、
父になんと言ってもらえるだろうか、
そんなことを、若干なりとも考えるこの頃なのだ。