温故知新

会津塗りの厨子。
猫足が厨子の重層さを感じさせない軽快さに変えている。

もともと仏教にはなかった先祖供養の概念は、中国を通過するとき道教をとりこむことで概念化した。

そのことが、仏教が日本に浸透した一因をになうことになろうとは、仏様でも・・・
いやこれは言いすぎ。
仏の心の深遠さ摩訶不思議さを感じてやまない。

神道の神と仏とが結びつくおかげでさらに深く浸透する結果を生む。

だから、寺院の縮図の仏壇には、仏(死者ではない)と仏(先祖)が同居する。在家にはこんがらがった見方が生まれる原因を作った。

本来、仏壇にお給仕することは回向(えこう)することなのだ。
本尊の仏様にお給仕をし、経をあげ、八正道を誓いすることで、仏(本尊)に自分が近づくこと、その功徳を亡くなった方に手向けて欲しいと願う。すまり回向なのだ。

最近お客様と接するたびに、
「私の仏様」「私の守り本尊」
ということを、たびたび耳にするようになった。

家の宗教。仏壇の仏様。が厳とあって、
自由裁量のない仏壇屋。
「仏壇の仏様があればいい」、買う方にも、売る側にも
そのいい加減さがあった。しやでしかたなかった。
自分も含めて風穴を開けたいと思っていた四半世紀前から、
守り本尊を持ち出し、事あるごとに推し進めてきた。

けれど、今ほど守り本尊が一般化しようとは、
当時は思いもよらなかった。

まして、仏壇と離れた仏像を個人が持つなどと言うのは、
一部の信仰や嗜好の強い方程度のお話しだった。

救世観音だ、夢違観音だ、走り大黒だと、
様々作らせていただいている間に、
その噂を口コミニュケーションで伝えていただいて、
多くのご縁を頂戴もした。

けれど、口コミという伝達はあくまで結果の世界と思う。
その前提として、
「わたしの仏さま」を望む声が渦巻いているのだ。

「家の宗教」というしばりから、
本来の個の宗教へと期待が広がってきているのだと思う。

ますますこの傾向は強くなるのだろう。

だから、供養の形に決まりはない。
そう応えるしかない。

ただ、供養しやすい形。
祈りの形はあると思っている。

さらに言うならば、こうした形を崩すことで、
一度現状を離れてみたらいいと思う。

すると、余分なものを削ぎ落とした、
供養の形が再び形作られるのではないのだろうか。

古来からの仏壇に仏さま。お位牌に荘厳具。
その姿に仮にい戻ったとしても、それが日本人の心のふるさと、
原風景として刷り込まれたものなのだと思う。

今まで仏壇というと避けてきた旧来の古臭いと思われていた姿が結局、
近い将来に、も一度見直されるとぼくは予感している。

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