嫌われじじい

夕方、変わったお客様がみえた。

「東京芸術大学の学生です」
と訪問。
上さんが応対していたが要領を得ず僕にバトンタッチ。

ゼミの研究で浅草から墨田にかけてスカイツリーをテーマにしたパフォーマンスをしたいので協力して欲しいというのだそうだ。

「パフォーマンス?どんなことするの?」
と聞くとまだ何も決まっていないのだとか。

ふ~ん・・・
芸術畑育ちらしいお嬢さんたちは、身分を明かすことも忘れ熱っぽく説明するが、企画のベースがわからないぼくにはちんぷんかんぷん。

でも何かやりたいと言う気持ちだけは伝わる。

お返しに、僕の店の位置する雷門とはどういうところなのか、ここに商店会をどうして今の時期に作ったのか、何でこのネーミングにしたのか、なんでこの場所を愛するのか、浅草人の気質は?などなど。歴史をまじえながら小一時間熱っぽく語らせてもらった。参考になったのかならなかったのか・・・

話しながら・・・
この構図って、家族には辟易されている薀蓄好きの爺さんが、一方的にだれ彼なしに若い者を捕まえては話し続ける嫌われ爺さんのパターン?

と、心の中で苦笑しつつも延々と話してしまった。
ごくろさん。

どうとらえたろう・・・か。

お盆も終わり

と言っても東京のお盆のこと。

以前は忙しくてヒハーヒーハーしながら、この時期を過した記憶があるのだけれど・・・
最近は、違う忙しさになった気がする。

以前は確かにお盆行事としての用具つまり、お盆提灯やお進物のお線香や仏具など、先祖供養に関する品物を買いに来られるお客様が多かった。
けれど入店率は間違いなく増えた。

じゃその変化した部分ってなんだろう?

国籍が違ってきた・・・つまりお客様が多国籍になった。
日本語が聞こえないときもある。

ちょうどお盆にあわせて、浅草はほおづき市やあさがお市といったお祭があるから、観光資源には事欠かない。だから人の足も洋の東西を越えて集まっていただける。

だからかな。

お盆の質も人も商品も変化している。感がする。 

コースを変えて

朝、5時に目がさめて、飛び起き・・・と言うまでには行かないけれど、走りたい気持ちが相変わらず。重い体を起き上がらせるパワーになる。

用意を素早く済ませて飛び出す。
少し風があってヒンヤリしている。
朝一の空気は、こんな所に住んでいても格別のものがある。

柔軟体操を終えて歩きながら手をぶらぶら。
駒形橋を渡りながら、川面を見ているうちにいつものコースに足が向かない。

横網町の震災記念館を見たくなった。
橋を渡りきって、右に折れる。
高速の出口と言うこともあるけれど、実に殺伐としていた光景。
清澄通りに沿って川沿いの小道が続く。

と言ってもそれ街中のこと、自然の中を走る爽快さは微塵もない。
10分も走れば両国国技館の横に出た。
近すぎて意外。千葉街道までぐるっと遠回りをして、戻る形で清澄通りに戻り横網町に向かう。

鬼平犯科帳の舞台、弥勒寺はこの辺だったなと思いながら見つからず、慰霊堂脇の入り口から園内に入ることにした。

いつもここを訪れるのは夕刻が多いから、だいぶイメージが違う。
何十万柱の遺骨が眠る慰霊堂。おどろおどろしかった雰囲気もどこか払拭した感がある。何故だろう。

何気なく暮らしているこの地域なのだけれど、たかだか半世紀前さらに80年前にこの地を襲った不幸の上に自分たちは、こともなげに生きているんだなと思わされる。

(仕事の合間)

あ!そうか。
今日は13日か・・・

突然震災記念館に足を向けたく
ふと思い立った理由がわかった気がする。

今を見ない

朝はジョギングから始まる。

布団の中で背伸びをし、固まった関節を弛ませて準備をする。

僕のホームコースである墨田川沿いには、ブルーテントが山と建っている。
ブルーテントの住人とは猫を介在して時々話がはずむ。

夜になると、町の辻辻、シャッター前には、今宵の夜露を避けてダンボールが集まる。
今だ数度しか話はしないが、様々事情を抱えてこの生活に入った。

ダンボールやブルーテントならまだましな方で、着の身着のままで横たわる連中も少なくない。
目を背けたくなるほどの薄汚れた連中もいるけど、それなりにこざっぱりしているのもいる。
今の姿だけを見ていると、何故?こんな生活にって思っていまいそうになるのだけれど、でも、過去には無条件で愛された時期はあるんだよ。

彼ら彼女らを見ていると、彼ら彼女らの親に想いを馳せる自分に気づく。

彼ら彼女らが、シューッと赤ん坊に戻って母親の腕に抱かれている姿がダブって見える。

彼らとて親に抱かれ育った時期はあったんだろうにと。

サイクリストとしての言い訳

ぼくが自転車でさかんに走っていられたのは、24歳まで。
仕事を変わる前のサラリーマン時代。当時24歳が競輪学校の年齢制限だった(と思うが)こともあって、入校を真剣に考えたこともあった。

海外協力隊の研修センターが近くにあったこともあり、そこにも憧れをもちながら迷っていたのだから気の多い奴だったのだ。

ま、とにかく自転車が好きで好きでしょうがなかった。

そんなで自宅のあった横浜から、仕事場の横須賀までほぼ毎日自転車で通い、休みとなれば、クラブ仲間と長距離のツーリングで峠と温泉宿を結ぶ林道を走り回っていた。

ひょんなところから、安定した生活を捨てちゃったから、とても自転車趣味は封印せざるをえなくて、友人に譲った一台を除いて当時所蔵していた、5台の自転車は全て手元から離れていった。

そんな陸に上がった河童の体で四半世紀。

ただ、昭和の終わりに一度だけ、サイクリストの血が騒ぎだし復活の兆しはあるにはあった。

それが、今、唯一手元に残っている片倉シルク(倒産済み)のロードレーサーが縁を持った。

昔、クラブ仲間に貸したままだった(実は記憶違いで売っていたのだが)一台なのだが。

「お嫁に行ったから今はもう乗っていない」と貰った年賀状に書いていた一言に誘発され、使っていないなら返してもらおうと友人の実家のある横須賀まで取りに行った。

久しぶりに対面した愛車は、見るも無残に古びていた。
物置につっこまれメンテナンスもされないままにいたためだろう、フレーム意外のパーツは風化の一途をたどっていた。

ホクホクしながら浅草に戻り、足りない部品を買い集め組みなおした。

当時は体力も充分あったし、足りないパーツも簡単に手に入った。

20世紀中はさほど、自転車業界も進歩はなかったのだろう。

けれど、バブル崩壊の余波の影響はぼくの仕事にまで足音を忍ばせ、激変の形で顕現した。とてもじゃないが、趣味に興る余暇はついに犠牲となった。

そして昨今。
ふとしたことから(子供に自転車競争で負けた意地からなのだが)
50を過ぎてもう一度ゆめをと、愛車に手を入れ始めた。

今度は本格的に組みなおして、長距離を走れるようにしようとした。
が、どうしたことかパーツが揃わない。
時代は変わったのだ。

21世紀に入り自転車業界の環境が激変した。

生産拠点は中国に移り、余りにも安価なスポーツ車が名車を席巻していた。
使い捨てを前提にしたアルミやカーボンフレーム全盛の時代。
素人は手を出せない(出して欲しくない)工場性品製品。
新しい規格への移行。

そんな変化が21世紀に入ったとたんに始まったのだと聞いた。

当たり前のように存在していたはずのハンドメイドメーカーが次々に倒産の憂き目にあっていた。

昔はこの世の春を謳歌していた大手サイクルショップも、「もうだめなんだよ」と自分たちの時代の終わりを告げる主人たちの言にいささか驚きもした。

それだけ海外製品に押されている現状と、丁寧に永く持つ時代から、安く、軽く、速く走れればよい。の感覚が乗る側にも蔓延してきたのだろう。

パーツをコツコツ買い集め、好きなマイ自転車を組み上げ自分で走る。メンテも自分、大事に使う。は古くなったのだろうか。

エコブームはサイクルブームに火をつけた。
果たして、道路事情は良くなったか・・・

全くもって十年一昔どころではなく30年前の環境と何も変わらない。
変わらないどころか、マナーは間違いなく落ちている。

おまけに車も大型高性能化していて、車に乗せられている輩も多いからか、「相身互い」という日本の伝統を教えられない教育からなのか、平気で追い抜き様左折したり、幅寄せをしたりと知らぬとは言わせぬマナー違反を体験且つ目撃する。

実際は、自転車で走り車の流れに乗ってしまえばどうということもないことでもあるのだが、あえて命がけで自転車に乗りたいと思わなくなってしまった。

どうやら歳をとったのかも・・・
とも思ったりもするが、必ずしもそうとばかりとも思えない。

ジョギングをしてみるとよくわかる。
はっきり区分けされた所を走る環境は命の危険を伴わない。
むしろ暴走ママチャリの危険にさらされはしているが・・・

自転車の風になる爽快感は得もいわれぬ良さがある。だから続くのだ。
が・・・
その魅力をもってしても都内の交通事情はいかがなものか、走りたいと思うその芽を摘む。

まだ家族を残して死にたくないし、お世話にもなりたくないとも思う。

まあ無理することもないか・・・

そんな気持ちが朝のジョギングにエネルギーを傾けるのかもしれない。

そのくせ、
新しいのを一台買いたいとお金を貯めているのだから、矛盾を絵に描いたような自分なのである。

あたりまえ

なんてない。

何一つ無駄なものなんてないし、
当たり前なことなんてない。

朝、目が覚める。
床から起き上がる。
身体を起こす。
洗顔をする。
歯を磨く。
朝食をとる。
出社前に、もよおして厠に入る。
気持ちよく済ませる。
流す。
支度をし、玄関に行って靴を履き出かける。
今日の仕事に思いを馳せる。

・・・・・etc.

ある人は、また一日が始まっちゃた。
あれもやらなきゃならない、これもやらなきゃならない・・・
そう思う人もいる。

子供時代は虚弱だった。
それはそうだろう。

母が唯一の働き手であった我が家だったが
しかし僕は保育園にも幼稚園にもいかなかった。行けなかったと言うのが正しい表現かもしれない。

日中は布団からまず出ることもなくテレビもないしんとした暗い部屋で過ごし、
姉が小学校から帰ってくるまで、一人で留守番をしていた。
サンサンと照る太陽の下、黒くなることもなく、友人と遊びまわって泥んこになることもなく、骨と皮の5歳児となっていた。

一年以上を日陰者のように過ごせば、生物学的にもどうにかなってしまうだろうて。

あまりにも目に余り、心配のあまり、母はTONを田舎に預けるほどだった。
数ヶ月の田舎暮らしに多少の人間らしさを取り戻しはしたが、虚弱さは相変わらずだった。
小学校に入学時には、友人との駆けっこについていけたためしはなかったし、
学校にもがぜん休みがちとなる。
だって体が持たないんだもの。

たまに登校しても持たなくて、保健室で寝ていると、天井を見ながら、何でこうなんだろうと子供心にも悲しみを覚えたものだった。

中学から初めた剣道は、自分の起死回生となったのだが。

そんな時代を経たせいかな。
当たり前と言うのが自分の中にはない。

朝目を覚ませるのか解らなかったし、
今日は美味しく食事ができるても明日は気持ちが悪くてのども通らないなんていうことでわからなかったし・・・

何だろう・・・
そうだったのだ。
当たり前にできることが不思議でならなかったしその癖がいまだに続いている。

子供時代は、狭い範囲でしか視野がないから、自分を不幸の中心においていたけれど、
大人になるに従って、ボランティアの真似事に首を突っ込んでみたりして
「あたりまえ」に胡坐をかくことの愚かさを肌身に沁みて解ってきた。

だからこそ感謝ができるのだろうと思う。
「あたりまえ」を捨てることができれば「感謝」を拾えるのだと思う。

そんな思いを常に感ずることのできる感性が自分の中にありますように・・・
そうでありたいと思う。

はやぶさ=隼

惑星探査機はやぶさの大気圏突入。

トラブル続きで予定を3年もオーバーしながらも地球に帰還し燃え尽きた姿に感動を覚えた。

「いとかわ」とはおもしろい名前だな、日本人が関わっていたのかなと思い調べてみた。

日本におけるロケット開発の父、糸川秀夫博士が関わっていたとは知らなかった。小惑星「いとかわ」が糸川博士にちなんでの命名だったんだ。

そして惑星探査機に「はやぶさ」と命名された要因に、戦時中陸軍の名機である一式戦闘機「隼」があったなんて知らなかった。

もちろんこの隼は、糸川技師による設計でもあったという。

なんとなくジ~~ンときた。

まさに日記だ・・・

2004年4月19日

TONちゃん日記を書き始めた記念すべき?日。

http://www.nenjudo.co.jp/topics/topics.cgi?page=390

「ブログというのがアメリカから押し寄せてきそうだ」とウェブショップの勉強会では当時話題になっていた。
まだブログを「ウェブログ」と呼んでいた。
(今でも本式にはそうなのだけれど・・・)

けれど、このときはcgiで日記を作り、とにかく三日坊主のぼくが何処までできるか解らないけど、やるだけやってみようと始めたのだった。

が、意に反しほぼ毎日書き続け、今日に至ってしまっている。

途中からcgiの調子がおかしくなってきたので、すでに主流となっていたブログを利用して引越し、再スタートとなった。

だから、足掛け6年続いたことになる。

(へー!石の上にも3年と言うのにその倍かぁ・・・)

正直な気持ち。

手書きの日記なんて数日も続かないのに、実に面白いものである。

何年前のこの日は「何を」「どんな考え方」をしていたのだろうと振り返ってみるとこれまた尚、面白い。検索という手もあって、キーワードを打ちこめば、話題の中心を簡単に探すこともできる。

変化の中には、

当時日記の主人公がもう鬼籍に入ってしまったのもいる。

反面、めっきり年をとってしまっている仲良しのお客様も、日記の中には活き活きと書かれている。

当時乳飲み子だった子供も、小学生になっている。

お母さんの手伝いをしてあげなねと頭を撫でた子が、マサチュセッツのエリートになってしまったのもいる。

いつかお坊さんだね、と言ったあの人が、りっぱな坊さんになっている。

何がマイ流行だったのかも知らされる。

人様に公開する公共の場に個人的感情を書き連ねるのには抵抗を感じた。のは始めのうちで、調子に乗って、随分書き荒らしてきたような気がしてやまない。

どうか今しばらくはお付き合い願いたい。

浅草ナンバーということ

ナンバー。

なんの?

自動車や原動機付き自転車についているプレートのことである。

陸運局に申請をして認可を受けた車輌だけがつけることを許される、あのナンバープレート。

浅草に住んでもう四半世紀が過ぎた。
自動車は仕事上なくてはならない存在だから都会の真ん中で持ちたいとは決して思わないが、図らずも肌身離さず・・・と表現してよいものか・・・ずっと相棒として存在している。

当社の位置からして、管轄する陸運局は足立区にある。

ということは、ナンバープレートは、「足立○○」という表示になる。

僕の母方の親戚は宮城県に住む。

若い頃、当時の若者の誰もがそうだったように、ごたぶんに漏れず大の車好きだった。

彼は、友人と同じ宮城ナンバーを好まなかった。
なんと横浜ナンバーにあこがれた。

そこで横浜に住む実兄のところに目をつけた。
彼は、仙台陸運局を袖にした。

わざわざ横浜に出てきて車を買った。
正確に言えば、買ってもらった。

もちろん実兄に金を出してもらい、かつ車検を通した。
ナンバーは憧れの「横浜○○」だった。

二年ごとの車検のために、わざわざ横浜に上京することになったのは言うまでもない。

ナンバープレートを見るとそんな記憶が蘇るTON店長なのだが、「足立○○」とも長い付き合いだなと時々思うことがある。

そろそろどうだろう・・・
お別れにしてはとも思う。

足立区でもないのに「足立」。
ここは台東区だよ。おかかしいよ。とも思う。

ん~~。

足立ナンバーをつける車輌は100万台を超えていると言う。
車を管理する方も、手が回らなくなっているのではなかろうか。

そろそろ一手に抱えるのをやめて、地方に分散したらいかがなものだろうか。
そこまで大上段なことではないにしろ、各区ナンバーがあっても良いのではないのだろうか。

浅草に住んでいるのだから、浅草ナンバーがあったらいいな。と思う。

ご当地ナンバーと言うらしい。

2006年10月10日、国土交通省の方針で「今般、地域振興や観光振興等の観点から、ナンバープレートの地域名表示を弾力化し、自動車検査登録事務所の新設の有無にかかわらず、新たな地域名表示を認めることとする。」とした。

19の都市が名乗りを上げてご当地ナンバーが施行されたと聞く。
近くには、成田、柏、川越、那須、つくば・・・
富士山なんてのもある。

より身近に感ずるではないだろうか。

僕の親戚ではないが、「浅草」なんてあったら、祭り好きや浅草好きの人間には、もしかしたら他の県からも要請がかかるかもしれない。

自動車行政が地方自治体に任されるようになったら(原付はすでに任されているが)、自動車税の争奪競争が起きて拍車がかかるかもしれない。

地元を愛する今日度合いを高める効果につながりかつ
都市間においてのサービス競争があってもいいのではないだろうか。

こんなの発見

本屋で立ち読みしていたら、目に付いた。

あまり聞かない出版社だったし、

批判本はあまり好きではないし、

表紙も好みではないし・・・

すべてないないづくしだったのに・・・

しかも欲しい本があって本屋にいったというのに・・・

衝動買いしてしまったのです。

だって・・・意外に当を得た論評が書いてあったんだ。
ここに住んでいると、たしかにそうそう。
じゃあどうしたらいいのと言う所まで書いてあって、分からず屋には自分を見つめるよい材料だと思ったわけなのでした。

各区の本があるようです。