母の愛

お母さんのイメージを
白檀で表現。

まあよくネーミングしたものだ・・・

ミルキーな感触で、まろやかな香り。

男性としては、ついこちらに手が出てしまうけど…

他に父の背もある。

こちらは沈香基調で、若干辛め。

ここにきてようやく梅雨らしく、
天の神様も
神妙に雨をしとしと降らせるようにしてくれるようになった。

ちょっと前は、空梅雨ーー!と騒いで
雨が降らないと飲み水が困るぞーと思っていたけど、

降れば降ったで、お客さんの足が遠のく。
売り上げに影響するぞー…と騒ぐ。

身勝手で困ったものだ。

今日は今日でしか逢えない方が、
必ずいらっしゃるけれどね・・・

思慕

柏のOさん、春日部のJさん、大田区のFさん、埼玉のTさん、文京区のPさん、札幌のMさん、新潟のSさん、墨田区の・・・

しばらくいらっしゃらないなあ…
顔が見たいなあ。

父の背中

早いもので、
父親が逝った歳に近づいてきた。

3つになったばかりの秋に逝ってしまった父親の面影は、
おぼろげにも覚えていない。

父親がかわいそうにも思うくらい、
脳みその海馬の奥底にしまいこまれて、

記憶には全くない。

「片親じゃ大変な時代ね」と思うのは、
当時を生きた母と同年輩の人の話し。
それは育ててくれた側の話しであって、

子供の側は、いたって現状を受け止めていた。
ありのままに生きているものである。

なまじっか記憶の断片があると、
感傷に発展する種となったであろうから、
記憶が全くなかったというのはある意味、
幸いしたと思う。

都内のY大学を昭和初期に卒業し、
大学に残ることを勧められながらも 、
野心家の父は企業家の道を進んだ。

結果は事業は見事に大成功を収めたが、
補佐役の身内の裏切りと、
元来の人の良さと気風のよさは、
多くの負債を背負い込む結果となった。

惨憺たるものだったようだ。
結果、会社をたたむこととなった。

母と出会う頃は、過去の栄光の残光に照らされる中での
出会いだったようで、
程なく無職の生活を余儀なくされたようだ。

その直後、僕は生を受け、
バトンタッチするかのように父は彼岸に逝った。

「父の轍は踏んではいけない」
そう薫陶を受けながら育ち、
経済とはかけ離れた技術屋の道を選んだ。
はずなのだけれど・・・

気づくと、父の背中を追いかけている。

「親はなくとも子は育つ」とは、
よく言ったものだ。

父の失敗を繰り返させまいと、
注意注意しながら、育てられながらも、
父の轍(わだち)をきっちり踏んでいるのだから。

たとえ、口で教え込まれずとも、生を与えられた「動機」は、
きっと母の胎のなかで醸造され、
言葉ではない形を持って受け継がれていたのだろう。

しっかりと心に組み入れられているように感じる。

おかげで、人の良さと、義憤を感じる心は
どうしようもできないほどあるようで
生涯、貧乏道からは、はずれそうもない。

何度、大口のお客様であっても、
理不尽を目の前に見せられてぶつかってきただろう…
不誠実には耐えられないようにできているようだ。

でもしかたないと諦めている。
損得では動けないのだから。

自分が彼岸に渡ったとき、
父になんと言ってもらえるだろうか、

そんなことを、若干なりとも考えるこの頃なのだ。

夢違い観音

好きな観音様のひとつ。

実にさりげないが、
実に哀れみ深い眼差しを見せる。

見ていて風の起こる像がいい。

さわさわと、気持ちよい涼風が
この尊像を一目見たとき感じた。

長崎から

長崎から懐かしいお客様がみえられた。
と言っても、リアルでお目にかかるのは初めてなのだが・・・

「初めまして、いつもありがとうございます」が、
ネットの常用挨拶になる。

何度、こういう光景を繰り返しても、不思議な空気を感じる。

だってわかっているんだもの。
どういう方なのかは。
けれど視覚、聴覚で感じるのは初めてのこと。

正確に表現すれば、「視覚で初めまして」「聴覚ではじめまして」
なのだ。

気持ちはわかっているから、細かい説明はいらない。
なんだか身内の感触に似ている。
顔も見ていないのに、前に立たれると、なんとはなしに「○○さん?」
と名ほど口をついて出ることはないが、なんとなく判るのだから面白い。

ネットで仕事を始めたころ
ネットに特化して、リアルの店は閉めようかと
何度思ったか知れない。

店を維持していくことは、リスクだらけ。
経費も人も馬鹿にできない。
自分の理想を通すことと、現実はなかなか一致しない。

それならばと、ネットに切り替える準備を96年に始めた。
でもね、ネットがどんどんリアルに近づいてきた。

しかも活き活きしたつながりを求め、
お店にネット経由で訪れ始めた。2001年頃から特に顕著になった。

「ここじゃなきゃダメなのよ」
どっこいしょと、腰を下ろしながら話してくれるお客様もすこぶる
多くなった。

「お客様へ責任のあるを感じる」とは、言葉が多少重いけれど
効率や理想にばかり目を向けている自分に気づかされた。

「五感で感じる店のあり方」
店を始めた頃考えていた言葉を心のたんすから引っ張り出してきた。
ネットのおかげだと思う。

できることをやってみよう。

未来を塞ぐもの

児童虐待…僕にはわからない。
大人になりきれない親が原因と言うけれど…

僕にはまったく!わからない。
わかりたくもない。
弱者に対して、いかなる蹂躙も許せない。

人は時がくれば否応なく川を渡らなければならない。
彼岸へと。

けれど、心の奥では、永遠に生きたいと願う。
僕も人間は永世するのだなと思う。
けれど、肉は自然界の中で循環するものである以上
物理的に無理な話。

何をもって未来に生きるか。
とすれば、心の部分が引き継がれることをもって
永世というしかない。

自分の薫陶を受けた子供や師弟しか、
未来を象徴するものはいないではないか。

一番身近で自分の未来を託す存在が子供。

虐待とはその未来を自ら塞ぐ行為
と受け取れる。

子供の人格を無視した瞬間から、未来はないんだよ、

未来は要らないという事なのだろうか…
それとも、自分のような存在は、
未来に残してはいけない、残したくないと、
潜在意識がそうさせるのか・・・

思わず嗚咽するよ。
小さな命に。

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