唐獅子牡丹

正月らしく縁起よく、唐獅子牡丹

小さいけれど(幅180mm程度)よく彫れています。

年輪

夕方、一人の紳士が夫婦連れで店にみえた。
何となくどこかでお合いした感じはするのだが、
念珠を求めに来られて、次長の手に負えなくて
バトンタッチされた形で、適当な念珠がない旨告げることになった。

時間さえあれば、適当な価格帯と希望でおつくりすることはできると話すと
時間がない。今日明日の話なのだという。

僕も実務的に話さざるを得ずあーだこうだと話しを進めながら
在家用としては程遠い、尺6寸の大玉に収まった。

「これは、お寺さんが使うような大きさですね」
何の気なしに漏らした言葉が引き金になって、

「私たちも寺のものなの」
と奥様。

「あ。それは失礼しました」
「智韻寺と申します」
!!!

「E!ぼく西海です!」
「まあ==そうかしらと思ったけれど…」と奥様。
「もし間違えていたら失礼になるから黙っていたんだけれど」とご主人。

忙しさに讃祷歌を歌いに行っていた足が止まって何年になるんだろう…
讃祷歌の生みの親であり、公私でお世話になった先代の住職が亡くなって10数年。
そういえば一度もお逢いしていなかった。

お互いに年輪の刻みを目測違いしていたようだった。

お互い若夫婦だったんだ。

懐かしすぎて言葉にならなかった。

以前も讃祷歌の日記を書いていました。

浅草の今日の空

さぶい~~~
雪雲のような空模様。

と思ったら

そしてまた曇り。

さあ夜はいかなる天気となりますか。

めがね、それから

ついに近所の意を決して眼鏡屋に足を運ぶことにした。
浅草に移り住んだ当時は、近所に仲の良い眼鏡屋があった。
しかし、この不況で店を閉じてしまった。

ご夫婦で経営していて、ご主人も、奥さんも丁寧な客扱いで、
すこぶる気持ちのよい店だったのに…社会の荒波は、容赦なく
僕のオアシスを飲み込んでしまった。

しかたなく吾妻橋を渡ってその主人から紹介されていた店に顔を出した。
実はこれで二度目の訪問なのだが、日替わりで担当者が替わるらしく、
僕の顔までは覚えていてはくれない。

まずは検眼から。
これが子供の頃からいやでいやでしかたがなかった。

僕の目はちょっと特殊で、視神経発達異常つまり弱視というやつなのだ。
プラス乱視付き。だから、右だ左だと答えるのが今でも苦痛でならない。

右目は矯正しても0.3以上は視力が出ない。
見えると言っても、像がボヤーと動く程度。しかもチカチカしていて見づらい。
ただし、それは右目だけで、左目は健常者と同じなものだから、
左目だけでどうしても見てしまう。

そのために、小学校に上がるまで、
目の悪いことは本人ですら気付かなかったのである。

入学時の健康診断で再検査を指摘された母は、うろたえた。
両目2.0の母には想像だにつかなかったことだった。

当時の小学校で眼鏡をかけた子供は珍しく、どうしても注目を浴びる。
元来そっと暮らしたい性格の僕には耐えられなかった。

眼鏡を家に置き忘れたふりをして、逃げるように学校に行った。

そのうち念を押され、渋々、眼鏡をかけて出かけた。
けれど、登校の途中ではずした。

左右の視力のバランスが極端に悪いから、
レンズは左右極端に違う。

言うならば合わせレンズの牛乳瓶の底の右目と平ガラスの左目。
他の人が見ると目の大きさも左右でふた周りは違って見える。

眼鏡をかけると、意識せずに地球がまあるく見える。
異様な世界が映し出される。

そのアンバランスを、脳ミソがバランスをとって
普通に見えるように調整する。
かなり無理があるから、頭痛は持病のひとつである。

弱視の眼鏡は高価であった。当時でも3~4万はした。

しかし、どこかに忘れた振りをする。
友達との喧嘩で壊される。
(だから眼鏡をはずすときは暴れることにしていた)
そして無くしてくる。友人に隠されてそのままなくなる。

そのたびに、眼鏡を新調させた。
母親は文句一つ言わなかった。
母子家庭の我が家では家計の苦しいことは子供心にも解っていた。
夕食一人100円の時代、なぜ無くしたことを責めないのか、
小言を言わないのだろうかと不思議だった。

あとで知った。
弱視の原因は、僕が母親の胎にいたときの栄養不足と
医者に告げられたこと。
そして小学校入学時まで親として気付いてあげれなかったこと。
自戒となって母の言葉を制したのだ。

眼鏡は煩わしくも生涯の友になってしまったが、
同時に親の心を忘れさせないキーワードともなった。