この季節を想う

早いもので、もう1月を終える。

新年の浮き足立った感覚はとっくにどこかに行ってしまって、
すっかり地に付いてしまったけれど、

恒例の東京マラソンの前触れがあると、比較的おとなしい2月も
多少なりとも賑やかさを増すことに期待をかける。

ただ、ぼく自身は、この時期になるとどうしても東京大空襲を思い出してしまい、
すっきり!という気持ちにはどうしてもなれない。

「見てきたような・・・」というような言葉がある。
「戦後は終わった」と言われた年に産声を上げた若い?戦後生まれの人間としては、
覚えていよう筈はないのであるが、
ここ浅草周辺には、数多くの戦跡が、
忘れさせてくれない事実として、人間の愚を世紀を越えて伝えているのである。

浅草寺境内の焼け銀杏、隅田川周辺の供養碑、横網町の震災記念館、各寺院に残された供養碑・・・と、ついつい足を止めてしまう。
眺めていれば、誰かが説明してくれる。

お付き合いしている江東区の羅漢寺の境内にも、殉難者供養碑が残る。
住職に伺えば、東京大空襲の際行く場のない何百体というご遺体を、
境内に集められたという。
惨劇を伝えるには、あまりにも暖かい笑みをこぼすお地蔵さんがその地に建立されている。
そろそろ紅梅がその碑を飾ろうとしているだろう。

東京慰霊堂のSさん。
庭師をする傍ら、遺骨のお守りを長く戦後続けてこられた。
毎朝「おはよう」と十万を超す戦争殉難者と震災殉難者の無縁仏の骨壷の蓋を半開きにし、日の光を当て、「お休み」と納骨室の戸を閉めるを日課にしておられた。
知り合った当時、慰霊堂内部に見上げるほどに保管(安置)されている圧倒される無縁さんの姿を見せられたとき、何度嗚咽させられたことだろう。
一家全滅と思われる骨壷がいくつも散見される。もちろん引取り手があろうはずはなくここで息をしているのである。

車夫を家業としている友人の「講談人力車」岡崎屋さん
浅草寺境内の戦争樹木の説明では事欠かない。
焼け残った銀杏の木を擦りながら説明してくれる。

特攻訓練最中に動員され遺体の片付けに浅草にきたと話してくれた老夫婦。
いまでも鼻を手向けに毎年来られると聞く。
どうして忘れられよう・・・

ただ、過去の事実に恨みを残す愚はしまい。
けれど風化させる愚はさらにさせてはならないだろう。

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