どこまでほんもの?

「偽」が去年を現す漢字。

浅草を歩くと僧衣をまとい鉄鉢を片手に
道行く人に喜捨を乞う人が目に付く。
つい仕事柄立ち止まってどこのお寺かと観察してしまう。

わからないときは、
「どちらのお寺ですか」と直接訪ねる。
わからないままにするのはどうも…

見ていると、鉄鉢の中身を数える者。
半身に構えて、鉄鉢をぶらぶらさせている者。
疲れたのか、寒いのか、座り込んじゃう者。
喜捨されてありがとうとお辞儀をする者。

カメラを構えているのに気付くと急にしゃんとする者。
まあいろいろいらっしゃる。

喜捨させていただくのは、
あなたにあげるのではなく、
あなたの背後のお釈迦さまにお預けするのだ。

自らの徳を積ませていただくのに
お礼は言って欲しくない。

仏弟子として「師匠に成り代わりましてあなたの安寧を祈ります」
くらいに止めて欲しい。

そして、身なりは貧しくとも、神々しくあって欲しい。
破けた法衣ならツギを当ててでも丁寧に使う。
網代に穴を開けて当然のようにかぶらないで欲しい。
食を減らしても仏弟子の尊厳を守りたまえ。

子供がその姿にあこがれるほどであって欲しい。

辻説法できるのかな・・・。

房が変われば…

先日作った念珠を
房色を間違えて「なでしこ色」をつけてしまった事に今日になって気づく。

あわててやり直し。

「あやめ色」に、はじめからやり直し。

色が変わると、イメージがかなり変る。
ぐっとシックです。

中糸を紫に替えるとまた面白いのだ。

浅草の今日の空

曇ってら・・・

でも写真の目で見ると、北(浅草寺側)から南(駒形方面)に向けて
雲が筋上になっているのがわかる。
寒い証拠と言えよう。

ついに付きました。我が店頭にも・・・

四苦八苦

お釈迦様は人生を苦と見られた。
苦界からいかに脱せられるかと悩み苦行し悟られたのだ。
苦を理解した土台に四諦八正道の教えが生まれるわけだけれど、

そこに行き着くには、まずもって苦を骨身に沁みて理解されなければ
病に気付かぬまま薬は処方できないように、
行の処方もかなわないだろう。

苦については、四苦八苦という馴染みの言葉がある。
ほぼ慣例的に「仕事がさあ、四苦八苦よー」などと
冗談めいて使うほどののりになっている慣用語である。
けれど、これはれっきとした仏教用語。しかももっとも根幹部分の。

徹頭徹尾、骨身にに沁みないと、次に進めないのが人の性のようで
まだ余力があるうちは、べつの楽な道を探そうとする。

苦には生きる苦しみ。老いる苦しみ。病う苦しみ。死にいく苦しみ。
の四苦。
そして、愛せども離れいく苦しみの愛別離苦(あいべつりく)、憎しみ合いながらも離れられない苦しみの怨憎会苦(おんぞうえく)、求めつつも求めきれない苦しみの求不得苦(ぐふとくく)、こだわり執着から生まれる苦しみの五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を足して八苦になるというわけだ。

親友を自殺と言う形で失ったことで、
丸一年地獄の苦しみに苛まされたことが若かりしころあったが、
積極的に生きる姿勢の中から自分なりの生き方を発見できた
若かりし頃と違う生老病死苦があることをお客様から教えられてきた。

何度・・・契約の現場において、説明の最中において、納品の先において、嗚咽させられたことだろう。人目をはばからず泣いた。
この仕事をとおし、涙を飲み込むことを覚えたけれど、
「四苦八苦」のこの言葉。仕事を始めるときに軽く覚えた言葉は、
どんどん深層部分に染み込んでいくのである。

思いが深まるとは先人がよく言ったが、まさに当を得た言葉である。
言葉が深まるのである。

まだこの先いかほどの教えを、お客様から賜るのだろうか・・・

ひとつは身につけてほ欲しい珊瑚

珊瑚は女性のお守りの代表格。

暖かい家庭と安産の願いが込められている。
水晶は、そもそもがオールマイティーの守護石。

両者を合わせると、こうなるわけだ。

高価になって手が出せなくなるという以上に
近海の汚染によって珊瑚自体瀕死の状態が気になってならない。
まだまだこんなきれいな珊瑚も手に入るんだと、ちょっと安堵。

浅草の今日の空

文字通りの快晴。
少し手前から撮るようになりました。
写真を撮るときちょうど横にめぐりんが停まるので
邪魔者扱いで、あえて寄って画面に入らないようにしていたのだけれど、

それも浅草奈良での風景かと思い直し、画のモチーフに入れました。

と思ったとたん、逃げられた。

虚しく雷門だけが小さくなってしまった。

今更ながら・・・

仲良くしてくれているお客様が「四国霊場の先達になったよ」と
店に報告方々、新たな注文の為、来店してくださった。

先達の免状と共に手渡される朱の錫杖を拝見した。

本当に一生懸命巡礼をされてきた方だから、
さぞ感無量かと思いきや、嬉しさはもちろん隠せない部分であるけれど、
しっかりとマイナス部分を把握してきていた。

「今度あの寺に行ったときに、同じ状態なら忠告しておかなければ」

民間の意識をもって寺を見るそんな意識がビンビン感じられた。

先達にしても、他を差し置いて我も我もの気配りできないものも多いから
と先達らが集まる会において、これまた素朴に感じた感触を
置き土産にしてくれた。

「仏彫っても魂入れず」であってはならないこと、
何に対しても共通することだ。

今更ながら心に響いた。

浅草の今日の空

上空は風が強いのだろう。
雲が北から刷毛で撫でられるように流されている。

すっきりした日本晴れより、この程度の雲がある風景が好きだ。

我が子のために・・・

と言っても、店の子のご子息の為。

お母さんとして一生懸命玉を捜し配置を考え創りました。
水晶の龍彫りパーツはキーポイント。

文字通り、念珠なのである。

玉一個一個に思いを込めて作ったのよ♪

将来大きくなっても、玉を足せば、
りっぱに大人用のブレスとして使えるね。

だって・・・
余玉とはいえ、みんな良い玉ばかりじゃん…