あと少しで父が逝った歳になる。
もの心がついたときには(もの心の到達年齢は人によって様々だろうが)、
視界に生身の体はなく、二次元の白黒になったガラス越しの肖像が
僕の父親だった。
けれど、あいにく母親の腕(かいな)に満足していたのか、
二つ年上の姉にせっせと育てられた為なのか
父の割り込む余地がないほどに
寂しさを感じたことなど思い出せない。
もうすでに受け入れてしまっている者には、
存在しないこと。それが自然体なのかもしれない。
母は再婚することもなく懸命に働き尽くめた。
死ぬ思いを何度も越えながら。
母への感謝は、口で表すことは出来ない。
そう思えばますます、父の影は薄くなると思うのだが、
人並みに家庭を持ち、子供も一人二人と増えていくにつれ、
父の肖像を追いかけている自分に気付いた。
意識した覚えは全くないのだが、
「父ならどう考えるだろう・・・」
ほんの些細な心の動き。
気付くと自分の心に占める割合がどんどん塗り替えられている。
実体と共に暮らした時間など小指の先ほどの時間であったのに、
五十数年間共に暮らしたような実感が湧いてくる。
父母恩重経には、子供の不幸に泣く親の心の痛みと
いつかそれに気付く子の思いが綴られている。
思いを傾けなかった父への姿勢は、まさしく親不孝であったろう。
ずいぶん時間がかかったけれど・・・
生を与えられたその瞬間に、
親の情の全てをバトンタッチされていたことに、
ようやくながら、気付かされる昨今なのである。